ライトノベルは売れているサブカル作品に共通するテンプレート通りのストーリー、キャラクターを作って、50点です。
50点を取るために必要なのは、ヒットしているライトノベルやサブカル作品を読んで、売れていない作品は読まないことです。
良質な物だけに接し、粗悪な物に接しない、ということです。
コンピュータの専門用語にはGIGO (ガイゴー)というものがあります。
Garbage in, garbage outの略で、「ゴミを入れれば、ゴミが出てくる」という意味です。
これは人間にも当てはまることで、頭の中に良い物が入っていれば良質な物が出てきて、悪い物が入っていれば粗悪な物が出てきます。
一流の作品にだけ接し続けろ、というのは芸術の世界では昔から有る訓練法です。
本来なら、玉石混淆の様々な物語に接するのが最良でしょうが、インプットに費やせる時間は限られているので、効率的にやった方が賢明です。
その上で、自分の強みとなる経験や知識を蓄えていくのが、ヒット作を作るでの有効な作家修行法だと考えられます。
例えば、『狼と香辛料』『“文学少女”シリーズ』(いずれも2006年刊行)といったヒット作は、テンプレート的な萌え要素を持ちながら、人間味にも溢れた魅力的なヒロインが登場します。
その上で、『狼と香辛料』なら為替レートなどをストーリーに絡めて『経済学』を学べるようになっていますし、『“文学少女”シリーズ』なら、名作の文学作品を本歌取りした泣けるストーリーと文学蘊蓄を絡めて、『文学』についても学べるようになっている、という希有な独自性を持っています。
そのままではラノベ読者に受け入れてもらえないであろう、経済学、文学といった要素を、オタクが好むようなテンプレートの中に落とし込んで独自性を出したから、この二作品をヒットしました。
また、漫画の神様と呼ばれた手塚治虫は、漫画に理解のある裕福な家に生まれ、小学生の頃に200冊もの漫画の蔵書を持ち、これらを読みあさっていました。1945年7月、彼は大阪帝国大学附属医学専門部に入学して、医学を勉強し、医師免許を習得します。
手塚治虫は漫画だけでなく、ディズニーのアニメ、SF小説、宝塚歌劇団、実写映画などからも影響を受け、これらの娯楽作品の良いところを組み合わせて独自の作風を築き、そこに医学を落とし込むことによって、『ブラック・ジャック』(1973年)という天才外科医が活躍する名作を生み出しました。手塚治虫は実際に医療に携わったことはなく、『ブラック・ジャック』を描いたのは医者になって20年近くも経った後だったので、先端医療に関する資料を集めたり、取材を行なうなどして、知識不足を補っています。
人々が求めるオリジナリティとは、端的に言えば、その作品にしか存在しない『希少価値』です。資本主義の世界では、希少な物にこそ価値が見出されます。
『経済学』『文学』『医学』に対して深い知識を持ちながら、漫画やライトノベルを書く能力にも熟達している人間はレアであり、この二つが無理なく融合している作品は、他作品にない圧倒的な希少価値を持ちます。
(『狼と香辛料』『“文学少女”シリーズ』に関しては、経済学、文学に対しての実用的な知識が学べるというお得感があります。『ブラック・ジャック』の医術は嘘がかなり入っていて、批判されています)
これを生み出すのに必要なのが、売れている作品を研究して、それらの良いところを発見、組み合わせて良質なテンプレートを作る能力と、それ以外の分野の深い知識です。
テンプレートを無視して作品を書くとどうなるかというと、0点になります。
ミステリー小説なのに、謎解き要素がほとんど出て来ないような物です。作者は斬新だと思うかも知れませんが、そんな物がおもしろいと思うミステリー好きはいません。これと同じです。
私は作家志望が集まるオフ会に行って、そこで作品を読ませてもらうことがあるのですが、テンプレート通りに作っている作品の方がおもしろいです。ああっ、この人、お約束がわかっているな、ラノベが好きなんだな、と共感を覚えます。
しかし、萌え要素が嫌いで、ラノベをほとんど読まないという人は、私小説か純文学モドキの作品を作って、えんえんとツマラナイ展開を続けるので、読むのが苦痛になります。たぶん、そんな小説をラノベ新人賞に応募してもレーベルが求めている物とは違うため、絶対に受賞できないでしょう。
映画のない時代に生まれた映画監督が名作を残した。テレビのない時代に育ったディレクターが面白い番組を制作した。同じようにゲームのない時代に生まれたゲームクリエーターの堀井雄二や中村光一らが独創的なゲームを作ることができた。新しい文化の担い手というのは、そういうものなのだ。
名古屋の専門学校の講師から、「外でいろんなものを見て来い。ゲームばかりをやっている側がゲームを作るから、ゲームが面白くないんだ」と発破をかけられているという。
芦崎治/著 ネトゲ廃人p186より引用
私が読んだ、『ネトゲ廃人』(2009/5/)という本で、このような印象的なエピソードが語れていました。
これはライトノベルの世界でも言われていることで、ラノベの専門学校の講師である作家は、名作の映画や文学、漫画などにとにかくたくさん触れろ、と教えるそうです。畑は違えどもクリエーターの修行法というのは共通する部分があるのですね。
これが意味するところは、ラノベを読むだけでなく、その他の知識、経験も蓄えて、他にない独自性を見出せ、ということです。
決してラノベが好きでもなければ、ろくに読んだこもと無いような人間が、これまで先人たちが積み上げてきたノウハウをすべて無視して、実験的な作品を作れば傑作になる、という意味では無いはずです。それでヒット作ができるなら、誰も苦労しません。
最近会うラノベ作家志望の中に「萌えが嫌いなので、萌えがないラノベを書きたいです!」「ラノベはあんまり読みません!」という人がたびたびいて、もしや、ラノベ以外の物にたくさん触れよう、という修行法について勘違いしているのではと違和感を感じました。
確かに1990年代においては、萌え要素がほとんどない作品でもヒットを飛ばしていましたが、2000年代においては、萌えやラッキースケベは必須要素になっています。「禁書」「俺妹」「ゼロ使」「生徒会」「バカテス」「はがない」、トップに君臨したラノベで萌えがないものはありません。
これはライトノベルが、漫画、アニメ、ゲームとの連帯や親和性を高め、よりオタクコンテンツとして特化してきたためだと考られます。 直木賞受賞作家の桜庭一樹さえ、売れたライトノベルは、『GOSICK』(2003年)のみで、この作品はミステリーよりも萌えを全面に押し出したものです。
桜庭一樹以上の実力を持っていても、萌えがないとラノベ市場では苦戦、あるいは相手にされないということです。
桜庭一樹は元々、一般文芸よりの作家でしたが、彼女が優れていたのは萌えを完璧に理解し、ラノベ読者にウケるように工夫された作品を書いたことです。『GOSICK』のヒロイン、ヴィクトリカは主人公のことを下僕、家来と呼びながらも、心の底では頼っているという、萌えのお手本のようなキャラです。
もちろん、今後、萌えのないラノベがヒットすることは可能性としてはあるでしょうが、2012年5月段階としては、そういった動きはありません。「萌え」は読者に楽しさを提供する重要な要素になっています。
これを無視して、「萌えがないラノベを書きたい」「萌えが嫌い」というのは、顧客に対するリサーチ不足か、挑戦するジャンルを間違えています。
どうもライトノベルは小説という形態を取っているためか、「高尚な物を書けば受ける」という幻想があるようです。しかし、これは間違いで、「ターゲット層となる読者により強い快感を与えた物が売れる」というのが実態です。
高尚な物、難解なものは、中高生に嫌われるので手に取って貰えません。最初から楽しませてくれる物、スッカとわかりやすい快感が求められています。
ライトノベルを一切読まないで、ライトノベルを書く人や、萌えが嫌いな人は、「顧客のニーズを理解する」というビジネスの基本を忘れています。
0点のところで足踏みをしていないで、売れている作品を読んで、それらの良いところを研究、吸収し、まずは50点をコンスタントに取れるようにしてみましょう。
一般小説でも、実学を落とし込んで成功した作家はいますね。
例えば、第十四回サントリーミステリー大賞で優秀作品賞を受賞した作家の内田幹樹さんは、自身がパイロットであった経験を生かして、飛行機の構造や運用をトリックに使ったミステリを上梓されました。彼は2006年に亡くなりましたが、彼が亡き後、一般小説の世界に似た様な味わいの小説が出てこない事を見ても、彼の小説は、彼にしか書けない、彼の持っていた実学から生まれた小説であると解ると思います。
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