食用ウサギさんの質問 2014年03月08日
皆様こんばんは。
物凄いご無沙汰ですが、いきなり少々べヴィな投稿を致します。
私の中にずーーーーっとわだかまっていて、未だ答えが見つけられず吹っ切る事も出来なくて、それ以前に考えを上手くまとめる事すら出来ないもやもやがあるのですが、端的に申し上げると「失敗作は果たしてゴミなのか?」「報われない努力は果たして徒労なのか?」と言う疑問です。
この度この話題を投稿しようと思ったのは、先日面白いコラムを見つけたからです。
■あなたの作ったものはゴミである
・モノには価値があるモノとないモノがある。
・「頑張ったか」は価値があるかどうかとは無関係。
・価値がないと判断したときは、それをオブラートに包んで伝えるべきではない。
・価値があるかどうかは、作った本人には判断出来ないことがある。
・作ったモノがゴミなだけで、作った人のことまではゴミと言っていない。
・「ゴミだね」に傷ついていたら、クリエイティブな仕事はできない。
そして、「ゴミだね」への反論は、ゴミではないモノを作ることしか許されないこと。
それに対する某所の反論
■「ゴミだね」と言われて本当に「傷つかない技術」
私なりに要約すると
・すべての作品には価値がある。
・物の価値とは一元的に測れるものではない。
あるクライアントにとってはゴミでも、別のクライアントにとっては宝かもしれない。
・価値のないものに、どういう意味と価値を付けて売るかが、プロとして腕の見せ所。
・駄作で金を貰ってこそ本当のプロ!!
更にそれに対する私の反論
(実は私自身上手く考えがまとめられないので、箇条書きにします)
・いや、本当に箸にも棒にもかからない作品は存在する。
・いや、いや、ゴミを売っちゃマズイっしょ。
・「駄作で金を貰ってこそ本当のプロ!!」この台詞を島本和彦さんが言っても説得力が無い。
何故なら、出典の島本さんの「吼えよ!!ペン」はメッチャ面白いから。(←よかったら一度読んでみて下さい)
・失敗作がゴミになるか宝になるか。失敗が次の成功への布石となるのか、徒労に終わるのか、それは結果論でしかない。
・しかし、失敗作を失敗作のまま放置していては、それは確実にゴミで終わる。
結論:この世に本当に無価値なものがあるとすれば、それは「無為」何もしない事だけである。
上記リンクの記事の二つは、二つとも「なるほど」と感心させられる一方で、やはり「うーん……それはどうかな?」と納得できない部分もあります。
酷評、批判、過去の痛い失敗等は既に何度も論じられ、また皆様もそういった経験がおありと思いますが(逆になかったらそれは天才か、作品を一度も発表した事の無い人でしょう)
もし、自分の書いた作品を「ゴミだ」と言われて捨てられてしまったとしたら、それをどう受け止めるでしょうか?
●答え●
>>自分の書いた作品を「ゴミだ」と言われて捨てられてしまったとしたら
賞に応募したら、こんなことは日常茶飯事です(笑
はっきりとは言われないですけど。ニュアンスで分かりますし。一次落ちはやっぱへこみます。
ですが自分が成長した後で作品を振り返ると。やっぱり「ゴミ」だったなと思います。
僕自身、作品の評価としては「これは間違いなくゴミだ」と自信を持って言えますが(?)。
僕にとってはすべてが大切な作品です。
なぜならその作品は”失敗”を僕に教えてくれたからです。
失敗なくして今の実力は成立していません。
ですがそれは僕個人のことであり。他人に理解してもらおうとは思わないですし、こういう話はどんなに一生懸命説明しようと。へー、としか伝わりません。それにまわりから見ると確実に「ゴミ」ですから。
世間は結果でしか語られませんし。努力はやって当たり前、話題にすらあがりません。
結果をだすのがプロであり。目の前の一作が常に勝負です。売れなければ、――自称小説家です。
ですが他人からは「ゴミ」だと言われても、評価されなくても、自分を責める必要や変に後悔する必要もないと思います。
小説は嘘がつけません。作者の苦しい気持ちも文章に現れ、読者にすべて伝わります。
それにいつどの段階で、作家が化けるかは。編集者も本人ですらも分かりません。
ですから失敗は分析し、改善策を見つけ、次作に活かす。
そうして焦らず、小説にたいして誠実に、今日できることをコツコツとやっていくのが一番いいと思います。
もし自分が何百時間かけて一生懸命書いた小説を破って、小説家になれるのなら何度でも喜んで破ります。
そして、さらにいい作品を、破ったその日から書き始めます。
大丈夫です。破った作品は例えデータが無くても。何度でも似たものが書けます。もうすでに僕の一部になっています。
ここは皆さん同じだと思います。
どうも、Rainです。記事名見た瞬間に「お、荒らしかな?」と思ったのは秘密です。
> 私の中にずーーーーっとわだかまっていて、未だ答えが見つけられず吹っ切る事も出来なくて、それ以前に考えを上手くまとめる事すら出来ないもやもやがあるのですが、端的に申し上げると「失敗作は果たしてゴミなのか?」「報われない努力は果たして徒労なのか?」
「失敗作」とされるモノは、評価者にとってどうしようもなく「失敗作」でしかないので、後は作者がそこから何を生み出せるかでゴミかどうかは違ってきます。「失敗は成功の母」というように、それを成功へと繋げられたら、作品としては評価されずとも意味のあるものだったのではないでしょうか。
逆に、報われない努力は徒労です。そもそも努力自体が「結果を出す=報われる」という目的の為にされるものですから、それが出来ないという事は無駄以外の何でもありません。もしも未来が見えたとして、今の努力が報われないと知ってなお続ける人がいたら、それはよほどの酔狂であると考えます。
以下、三つの意見に対する私の意見です。面倒臭いので箇条書き。
1.あなたの作ったものはゴミである、についての意見
> ・モノには価値があるモノとないモノがある
価値があるとする人と、価値がないとする人がいるだけです。モノ自体は単体で絶対的な価値を有する事はありません。
> ・「頑張ったか」は価値があるかどうかとは無関係
作品に対しての評価とは全く関係無いです。作者がその頑張りから次に生かせるモノを得られたのなら、それは作者にとっては無駄ではなかったというだけです。
> ・価値がないと判断したときは、それをオブラートに包んで伝えるべきではない
そもそも「~べき(ではない)」というのは個人の意見であり、従わなければならないものではない。よって、嫌われる覚悟をしてでも成長を願って「ゴミだ」と切り捨てるのも、以後相手にしないつもりで「いい作品だね」と流すのも、その辺は個人の自由。
> ・価値があるかどうかは、作った本人には判断出来ないことがある
作った本人が「価値がある」と思うのなら、それを否定する必要はない。ただし、価値がないと判断する人がいて、世間に受け入れられないという現実も受け止めた方がいいと思う。
> ・作ったモノがゴミなだけで、作った人のことまではゴミと言っていない
「創作者としての実力がない」という判断になるのは否定できない。しかし、人格否定ではない。
> ・「ゴミだね」に傷ついていたら、クリエイティブな仕事はできない
どこが悪いのかを受け入れて、改善しようと心がけなければ良い作品は生まれない。とはいえ全て言いなりになる必要はないが。
> そして、「ゴミだね」への反論は、ゴミではないモノを作ることしか許されないこと。
ま、なんにせよ結果を出せって言う事ですな。
2.それに対する某所の反論、についての意見
> ・すべての作品には価値がある
作者自身さえ諦めた作品なら、本当に無価値の作品となる事はある。
> ・物の価値とは一元的に測れるものではない。
感性は人それぞれ。辛党と甘党みたいなものだと思う。
> あるクライアントにとってはゴミでも、別のクライアントにとっては宝かもしれない。
可能性はある。ただし、己の作品に致命的な欠陥があるという事も考慮しなければならない。
> ・価値のないものに、どういう意味と価値を付けて売るかが、プロとして腕の見せ所。
> ・駄作で金を貰ってこそ本当のプロ!!
プロの定義なんぞどうでも良い。金もらってればプロだし、自分で自分の仕事に満足したならプロを名乗ればいい。
3.食用ウサギさんの反論、についての意見
> ・いや、本当に箸にも棒にもかからない作品は存在する。
無いとは言い切れないのが悲しいけど事実。ラストりべリオンは本当にごめんなさい。
> ・いや、いや、ゴミを売っちゃマズイっしょ
消費者的には殺意を抱く所だが、商人としてみるならば評価すべき点ではある。売れるなら、であるが。売れない作品を世に出すのだけは誰の得にもならないので勘弁してください。
> ・「駄作で金を貰ってこそ本当のプロ!!」この台詞を島本和彦さんが言っても説得力が無い。
> 何故なら、出典の島本さんの「吼えよ!!ペン」はメッチャ面白いから。(←よかったら一度読んでみて下さい)
島本さんは「吼えよ!!ペン」を駄作だと思ってるのかもしれない……
ま、ただの作風だと思うけど。
> ・失敗作がゴミになるか宝になるか。失敗が次の成功への布石となるのか、徒労に終わるのか、それは結果論でしかない。
> ・しかし、失敗作を失敗作のまま放置していては、それは確実にゴミで終わる。
曰く「努力したからといって成功するとは限らない。しかし、成功したモノはすべからく努力している」とか何とか。
自分の才能に見切りをつけるのも一つの選択肢ではある。
> 結論:この世に本当に無価値なものがあるとすれば、それは「無為」何もしない事だけである。
同意。
> もし、自分の書いた作品を「ゴミだ」と言われて捨てられてしまったとしたら、それをどう受け止めるでしょうか?
1.どこが悪かったのかなーと考え、
2.この人には合わなかったのかなーと別の人を探し、
3.じゃあ次は傑作生み出してやるぜ、と息巻く。
……とまぁ、こんなところでしょうか。ところどころ理想論が入り混じってますが、それが自分だと言い切れるようになりたいものです。
> 「失敗作は果たしてゴミなのか?」
ゴミです。フィクションでの陶芸家が(リアルでもよくあるけど)できた作品をガシャンと壊してしまうなんてあります。原稿用紙+万年筆時代の小説家が、書きかけ、あるいは書き上がった原稿用紙を破って丸めて屑籠に放り棄てたりします。
クリエイターとしては、自分が創作に失敗したものに固執すると、失敗を肯定してしまい、失敗を継続する悪癖が身に着いてしまいます。失敗することを学習してしまうと言ってもいいかもしれません。そうなると、進歩が止まってしまいます。
> 「報われない努力は果たして徒労なのか?」
失敗作を失敗として否定できるなら、徒労ではありません(そのための『儀式』として、失敗作を破壊したりする)。同じ失敗をしないように学べたなら、それでいいわけです。ノウハウはそうして溜まって行きます。そうできてこそ、失敗は発明の母となれます。
これについて二つのブログが異なる意見を述べているようですね。上記に関して言えば、提出しようとしている学生を講師は一瞥して(彼らの力量を講師はよく把握しているらしい)、全て破棄しろと言った。理由はゴミだから。
ゴミですよ、学生レベルの作品ですから。学生の反応も学生レベルです。学生として努力した成果を見てもらえないと不満を言う。中には講師でいられなくしてやると息巻く者すら出る。俺たちお客様は神様だ、の意識であるわけです。
まだプロとして通用しないから学校にいるわけです。特に米国ですから、自分が世の中で通用すると思ったら、学校なんかさっさと中退して自立します。それができないから学校に留まっているのです。「プロの作品としてはゴミだ」で正しいわけです。
最後の学年だと文中にありました。もうすぐ、世の中に出て学んだことで食って行かなければならないのです。学生気分は捨てなさい。結果が駄目でも、途中の努力が認められるなんて、これからはないよ。そんなのは半人前だ。仕事の成果と自分自身を混同するなんて、クライアントにとっては迷惑だ。そういう授業だったのではないでしょうか。
★「あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点」
ゴミを作ることを否定はしていませんが、プロとしてやっていきたいならゴミはゴミだと認識すべし、ということでしょうね。ゴミでないものができるまで、作り続けろ、というメッセージのようです。
クリエイターの視点ではなく、プロデュースしたりマーケティングする視点、あるいは発注者としての視点のようです。
売ろうとして頼んで、出てきたものがゴミだったらどうするか。それをゴミと思わない買い手を見つけて売るのがプロ、ゴミがゴミでないような使い方を工夫するのがプロ、最小限の手直しでゴミを商品に変えるのがプロ、といったことでしょう。
作家を目指すなら、この意見に甘えられませんが、もし編集者を目指すのなら貴重な意見になり得ると思います。ただ編集者は、作家に一対一で会っているときには、大変に多くの駄目出しをして、修正を迫ることも多いでしょう。その上で、書き上がった作品を編集長、さらには読者には魅力を語って、どんどん売り込んでいくことになります(どちらもプロとしては必要なこと)。
一対一で諭すシーンですね。上記台詞は、まず相手が一番否定したいことを敢えて肯定して、ショックを与える手法です。考えが歪んでいるとみたら、その反対を言ってみるというやり方で、よく使われます。極論に対して極論をぶつけて相殺する感じです。
その後の、「納得のいく仕事だと!? 笑わせるな!!」辺りから、本当に言いたいことが始まるはずです。仕事と言っていますね。それで食っていくことを度外視して、一生の間に満足できるものが一つできればいい、ということなら納得いくまでやり直してもいいでしょう。
それで稼いでいくなら、そんなことは許されません。コミックやラノベだとして、作家が稼げさえすればいいわけではありません。作家が書いて(描いて)、それを印刷し、書籍化し、本屋さんが売る、その一連に関わる全ての人が、それで食って行かねばなりません。週刊誌、月刊誌などなら、「今回は○○は休載です」などとなるのは、売れ行きに大変な影響を与えます。
作家がコンスタントに自分で納得がいく最高のものなんてできるはずがありません。また、作家だけで創作が成り立っているわけでもありません。例えば「こんな納得いかないものは出せない」などと、わがままを言ってはいけないわけです。
> 結論:この世に本当に無価値なものがあるとすれば、それは「無為」何もしない事だけである。
手を動かさないことを以て「無為」とするなら、少し違うような気もします。生きている限り、頭は働いていますから。さらに、その頭も無為にする座禅などは、無価値なのかどうか、難しいところです(座禅によって何かを得ようとするのも、害があるらしいけど、ちょっとよく分かりません、すみません)。
純粋に自分が楽しいから書く(描く)ということなら、どうやってもいいのかもしれません。それでも、失敗することを恐れて力をセーブしたり(本気でやっていないと言訳する準備とか)、ましてや失敗を失敗と思わない心境に安住して、批判に対して怒りを覚えることに終始するようになると、無価値を通り越して害になるように思います。ましてやプロであったり、プロを目指すなら……。
どう受け止めるかと言われると…場合によってはショックで寝込むかもしれません。
ただやるべきことは原因の分析なんでしょうね。
「ゴミ」と言われてもその意味するところはいろいろあるでしょうし。それが自分の作品の質に起因する場合もあればターゲットが違っていただけかもしれないし、あるいは相手のコンディションが悪かったのかもしれません。
大事なのは考えるべき時と考えるべきでないときの見極めかなとも思います。
反省をしなければ当然上達は望めませんが、かといってがむしゃらに反省しても意味がない。冷静になれるよう時間を置いたり、前とは違った視点で見れるように自分を高めたりすることも必要なのかなと。
私は失敗に学べって人なので、失敗作は歓迎だし他人の失敗作は読みたいと思ったり。
成功した作品って、それ以上がないんですよね。
名作にインスパイアしても、元ネタが優秀すぎてその影がちらつくっていうか。
結局、手の加えようがないから名作なわけで。
成功作から学ぶことは多いんだけど、それって教科書を読んでるみたい。応用したり別の形で真似してみたりってことは出来るものの、そこ止まりで、私が未熟なだけだろうけど、そこから先に進めず創作の域に達することがない。
まあ教科書も大事だけれどね。
対して失敗作というのは、失敗してる場所がわかりやすく、どこをどうしたら良いのかすぐわかる(もちろん手の施しようがない作品もある)。
自分の作品であれば、それを次の作品にすぐ活かせるし、他人の作品であれば原型がわからなくなるほどいじることもできる。
失敗から学ぶことは、まるで問題集を解いてるかのよう。
そうして出来る次の作品がまた失敗作である可能性は否定できないけどね。
そんなわけで、私は自信作を「ゴミだ」と言われたら、カチンとくるけど、ほんの少しの嬉しさもあるかな。
自分では気づかなかった問題点がまだ作品に残ってるってことだから。
それは改善の余地がある、つまり自分はまだ上達するってこと。……ポジティブすぎるね。
まあ、たいていの場合はいろいろ問題があるのを知ってて知人に見せて「つまらん」と言われるんだけど。
ちなみに、「あなたの作ったものはゴミである」の
>・価値がないと判断したときは、それをオブラートに包んで伝えるべきではない
これ以外は頷いてしまいます。
これは、プロ相手ならオブラートに包むべきじゃないけど、初心者や中級者くらいが相手の場合は、「面白いもの」より「次を書くこと」が大事だからね。
筆を折るような事は言っちゃダメだと思う。
そして「某所の反論」の要約は
>・駄作で金を貰ってこそ本当のプロ!!
これに頷いてしまいます。それ以外はなんか希望的観測な感じが。
たぶん、島本和彦さんは名作を書こうと思っていないんじゃないか……と何かの対談を読んで感じたことがあります。
確か、「約束を破る楽しさを知ってくれ」とか「飽きっぽいからすぐ終わらせたくなる」とか言っていたような。
以前下読みさんに「遊びなら送るな」と言われちゃったことがあるのですが、確かに真剣に仕事してる人に対して失礼な言葉を言ってしまいましたが、しかし常に全力でないと商品にならんなんて人はどうなんだろうなと私は思います。
また、
>・しかし、失敗作を失敗作のまま放置していては、それは確実にゴミで終わる。
これには深く同意できます。
失敗作は活用してこそワナビの財産。
引用先のコラム「あなたの作ったものはゴミである」を見ました。食用ウサギさんの要約は私と解釈が違うな、と思いました。
なぜなら、コラムを書いた人が伝えたかったのは「心構え」だと思うからです。
私がコラムを要約すれば、
・仕事はアウトプット(結果)が重要。
・努力はインプット(過程)。インプットをどれだけ頑張っても、アウトプットがダメなら仕事の価値はない。
・アウトプット(結果)の評価は、客が決める。
・仕事を始めると、あなたの作品を見もしないでゴミだと言い捨てる人が必ず現れる。
・自分の作品をゴミ扱いされて心が耐えられない人は、プロにならない方がいい。
・仕事をするなら、お客さんにゴミ扱いされることに慣れましょう。
このような仕事の心構えを説いているんだと思いましたよ。
某所の反論は、コラムの主張である「心構え」から論点がズレているように思えます……。
『発注者が作品を見ずに破り捨てるなんてありえない』は、コラムの主張である「心構え」とまったく別問題です。
某所が放った反論の矢は、コラムの主張の的を大きく外してとなりの的に当たっています。そこは別の的ですよと、つっこみたくなりますね。
>「失敗作は果たしてゴミなのか?」
ゴミかどうかはその人の判断基準で決まりますよね。缶コレクターにとって空き缶は宝物でしょうけど、他の人にとってはゴミです。
他人の判断基準は自分でコントロールすることが出来ません。缶コレクターが必死に空き缶は宝物だと世間に訴えても、鼻で笑われ「ゴミ」と言われて傷つくだけです。
コントロールできないことをコントロールしようとすると、相手に振り回されて大変疲れるのでやめましょうね、という話だと思いますよ。
コントロールできないことをコントロールしようとすると不幸になります。
ゴミと言われても気にしない心構えを身につけましょうってことだと思いますよ。
>「報われない努力は果たして徒労なのか」
単に、作り手と受け手の視点の問題なんだと思いますよ。
例えばある新人のジャンプ作家が連載マンガをスタートさせたとします。そのマンガが10週打ち切りになりました。ジャンプ作家にとっては貴重な経験をさせてくれた宝物の連載作品ですが、大抵の読者は「ああ、あのつまらないマンガね」程度です。
作り手にとっては、インプットに価値がある。けど、受け手にとっては、作者のインプットに価値はない。
他人に「無駄な努力してるなw」と笑われても、コントロールする事は出来ませんので、気にしないようにしましょうねってことじゃないでしょうか。
どうしても見返したいならめげずに作品を作り続けるしかないよ、とコラムの人は言っているんだと思います。
結論:価値のあるなしは人によって変わる。ゴミ扱いされても、振り回されない心を強く持とう。
食用ウサギさんや某所とは解釈が違いますが、私はコラムを読んでそう思いましたよ。こんな解釈、いかがでしょうか?
疑問と悩みが解決しますように。
初めまして。夏犬と申します。
自分が完璧だと思ったものがゴミだと言われてしまったら、受け止められないでしょう。でも、現実には駄目なものを駄目といわれているにすぎないのだと思います。完璧な作品なんて存在しません。
>駄作で金を貰ってこそ本当のプロ
この言葉は、真実を突いている中々いい言葉だと思います。
ちょっと関係ない話に脱線しますが、我慢してください。
ゲームでも、大体の場合は、クライマックスに向かって話が進んでいきますよね。そして、世界を平和にするというクライマックスが過ぎると、その後は100パーセント平和で、何事もない世界が続くわけです。
現実は、むしろ逆に、どんなにいいことをしても、最後には衰えて、死というバッドエンドなんですよね。死ぬことがバッドエンドなのかどうか、ということはおいておきます。
要するに、プロは、オチや盛り上がりやカタルシスのない物語のような感覚で仕事しているのだと思います。いい作品を一つ書いてグッドエンド、ではないわけです。終わりはありません。駄作を書いて金を貰うというのは、良作を書き続けねばならないという悪夢のような現実に対する、一つの答えです。
金が貰えなくても、我々も、失敗作でも何でも書けばいいのです。その努力が無駄かどうかは、分かりません。どんなゴミでも、六対四、七対三の割合で、良作になり得る要素を秘めているはずです。ですから、駄作でも、それなりに上手く書けている、ぐらいのものを書こうとする方が、気持ちは楽なはずです。