あおいさんの質問 2013年04月22日
作家志望であれば誰しも尊敬する作家がひとりやふたり存在するかと思います。
プロの作家さんでも同様で、例えば入間人間さんが西尾維新さんに強い影響を受けていることは有名で、ラノベ業界には数多い西尾フォロワーのひとりであるとされています。
ちなみに私は村上春樹さんが好きでして、作中でついつい直喩表現を多用してしまうというとてもわかりやすい影響を受けています(笑)
そこで気になったのが、好きな作家から受けた影響は隠すべきか否か?という点についてです。
前途した「西尾フォロワー」という単語も、あまり良い意味合いで使われている印象がありませんし、時には「劣化西尾維新」などというかなり直接的な揶揄を目にすることもあります。
やはり他人の影響が色濃く出過ぎているのは問題なのでしょうか?
いくら村上氏や西尾氏が好きで影響を受けてあっても、比較されて「劣化」だのと称されるのはあまり気分がいいことではないと思います。
村上春樹さんが直喩を多用するということは有名ですし、この特徴をはたして似せてもいいものかどうか迷っている最中です。
皆さんの意見をお待ちしています。
●答え●
こんにちは。
「隠すべきか」って訊かれると、「隠しきれるの?」なんて意地の悪い質問返しをしたくなります。
開き直る方が楽だと思います。
藤子不二雄さん(たち)だって、石ノ森章太郎さんだって、「手塚治虫の影響を受けてるよね」って言われた時は悔しかったに違いありません。だけど、お手本として認めざるを得ない。天才だもの。
『スターウォーズ エピソード2』のために書いたジョン・ウィリアムズのテーマ曲がラフマニノフとドボルザークの合作みたいだと私は思いました。悔し紛れの負け惜しみでした。涙を流して感動した事実を否定できません。
先人の技術を受け継ぐことができるなら、それは才能です。
ゼロからオリジナリティを構築できれば、それは天才です。
先に進むには、ある程度の開き直りと確信犯的な思いあがりも必要と思います。
純金と申します。
既存作家の影響だの何だのは、ある程度有名になってから気にすればよいと思います。
アマチュアのうちはとにかく数作品を仕上げることだけ考えるべきではないでしょうか。
別に隠す必要はないし、隠したいのなら隠しても構いません。
「守破離」という言葉をご存知ですか?
師匠から教わった形・基本を素直に守る段階が「守」。この段階では模倣でもいいのです。
研鑽を積むうちに次第に自分独自の技術に目覚め、形・基本を破りたくなる段階が「破」。
守り、次に破壊した後、自由な表現を得る段階を「離」と言います。
まあ、作家は文章だけでなく、アイデアで勝負ですから。文章が似ている程度は大丈夫かと思いますよ。ある程度量がかけたら、自分独特の書き方が生まれるかもしれませんし、それほど気にすることではないかと。
気にするのはそこじゃないと思います……
誰っぽいというより、きちんと完結しているかとか誤字がないかとか、読みやすいかとか、そもそも面白いのか? とか。
いいと思いますよ。その人の文章の良さを理解して自分で書いたりして、どんどん文章力を高めましょう。色々な作品の良さを自身なりに理解、イメージし、表現すると言うのは立派な勉強です。よってどんどん理解し、イメージし、表現しましょう!
オリジナリティがどうとか言う奴は、いるかも知れませんが、「~を真似た」と「~をこう考えた、だから~」は全く異なります。気にする必要無しです! 0から生まれるアイデアはありません!
コピーは全く持って意味を成しません。そこには自身の理解もイメージも無いからです。
『劣化コピー』と言われる理由は、影響を強く受けているからではありません。その作者独自の色が出ていないからです。
影響を感じられるのが特定の作家や作品だけというのが問題視されるのではと思います。
というのも西尾さんにしろ村上さんにしろそんじょそこらの人間より多くの本を読み様々な教養があるはずで、全く外部からの影響を受けずに純度100%本人の感性だけで書いているとは思えないからです。
人気作家の書く、様々な影響のもとに抽出されたものだけを捉えて、アマチュアが抽出物からさらに抽出するようなことになれば当然影響元のバックボーンや原風景は見えにくく味も薄れ、「これ読むぐらいなら本家読むわ」のいわゆる劣化コピーとなってしまいます。
その意味でもこのサイトにある3人以上の師を持てとの言葉はなるほどと思います。
もの書きを志す以上、読んだ小説が数冊だけ、知ってる作家が数人だけなんてことは恐らくないでしょうし、
あれこれ幅広い作品に触れた中から特に好きな作品や作家のそれぞれの魅力的な部分を真似るようにすれば、影響を隠さずとも自然と読み手側から見たオリジナリティも出てくるように思えます。
個人的な考えですが、創り手の個性は何も発想や思いつきだけに現れるのではなく、どういう作品を好んでいるのか、何から影響を受けてきたのかといった作者としてのバックボーンも含まれると思います。
何十冊も読んできたであろう中でも村上春樹の影響が一番強く出ている印象、なら誰も「劣化版」などと言わないと思います。
ただ、村上春樹特有の特徴的な表現以外には特にクセがない、全体的なクオリティもそんなに高くないとなってくると、劣化版などと言われることもあるのではないでしょうか。
理解が浅いから悪く言われるだけです。
どこまでもどこまでも深ーく理解すれば、二代目とか新世代のとか後継者とか超えたとか、いくらでも肯定的な冠がつきます。
私の考え方を述べさせていただきます。
影響を受けてそれを用いる事自体は特に問題は無いかと思います。
そうしてみたいからこそ、そうしたのであって、なんら責められる事でもないかと。
ただ、それが自分のスタイルに合っているかは、考えた方が良いと思います。
私自身は、そうしてみたいからといった思い付きで始めてみたりしているので、割と非難されたりしています。
酷評される事も多々・・・
だからと言って、それが悪いとばかりも言えないので、自分なりの答えを探すつもりで使用する事にしています。
それを使い続ける事も、差し控える事も、自分のスタイルとして確立する事を目指すべきでは?
私自身は、やりたい様に、やってみたいからといった欲求に従って、したい様にしてみています。
それで非難轟々な事も有りました。
特徴的だからそうするのか、して見たいからそうするのか、これが自分だからと開き直って見るのか次第では?
私は開き直って自分のスタイルはこうだからといった思いから、何をどう言われ様と、余り変えるつもりはありません。
名前の通り、年くった亀の如く、自分のペースで進むまで。
自分は自分、他の方は他の方、比べられてそう思われるのなら仕方がないと、割り切ってみます。
似せる為にしているのか、自分がそうしたいと感じるからそうするのか次第では?
自分としてはその表現が妥当だと感じるのであれば、それでも良いのでは?
その代り、それよりもっと上手く表現できる言葉を見付けたのなら、そうしてみる事も必要かと・・・
ちなみに最近、私が書く物は「頭が痛い」との評価が下されてしまった・・・
それはそれでこちらも頭が痛くなるのだが、気にしていたら楽しめないので、そっと頭の片隅に片付けてしまいます。
表現自体は自由な訳で、合う合わないは人それぞれ千差万別あるわけですし、気にしていたら何も出来なくなるので、忘れはしませんが、恨む気持ちは抑えきれず・・・
見返しちゃる、と張り切ってみます。
隠すつもりも何も、そうすべきだと思った事は自然に発露するべきで、影響ウンタラカンタラは言いたい人に言って貰って、自分がしたい表現ですべきでは?
他人に合わせる事が出来辛い人間なので、私はこうですよ、と顕わにして見たり。
それが原因で喧嘩になった事も・・・
反省すべき事は反省しますが、つい反論もしてしまうのが自分です。
長くなってしまいましたが、これが私の考え方なので。
極論ですが、面白ければなんでもアリです。
既視感が強すぎるとダメ、っていうだけです。
『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』 は明らかに戯言シリーズの影響を受けていますが、支持を得ています。
これはこれで面白いっちゃ面白い、と思わせることが一番大事です。
まず、「隠す」「似せる」ということを書くのは、ダメです。というのも、あなたが作品を作る際、他作家のパッチワークみたいな作品を作ればいいと勘違いされる危険性があり、あなた自身を貶めることになります。
ちょっと横道に逸れましたが、私は、問題だと思います。理由は、あなたの創作を始めてどれくらいかわかりませんが、あなたが影響を受けた作家さんの長所を、自分のものにする努力をしていない証拠でもあり、質問の文からもそれを感じることは出来ません。
そのためにも、あなたが何を書きたいか、どういったことをウリにしたいのかを考え直してみてください。
それがわからないと、影響を受けた作家さんのデットコピーかパッチワーク見たいな作品。つまり、あなたのいう他人の影響が色濃く出すぎたものができます。
また、似たような質問に第4研究室に「他の作品の影響を受けやすい」 というのがあります。参考までにどうぞ。
では。
自分は既に、世の中に全くもって新しい小説なんて存在しないと思っています。
数万、数百万、数千万、数億という数の本が人類という歴史の上に存在しています。
その中で、全く被らない本なんてないんじゃないでしょうか。
屁理屈のようになりますが、ぶっちゃけそれでいいと思います。
だって、誰かの作品に似るなんて仕方ないじゃないですか。
勉強をするのだって、スポーツをするのだって全て誰かに教わります。
学校の先生だって、昔は学生だったんです。
大学の教授の影響は少なからず受けるだろうし、スポーツならなおさらでしょう。
全てが繋がってるんです。
隠すか、隠さないか。隠すことはなんて最初から無理なんです。
なら、堂々と出せばいいと思います。
そして、その中で自分を磨いていけばいいんじゃないんでしょうか。
勉強を教われば、復習をします。
その中で自分にあったやり方を探し、新しい勉強法が見つかるかもしれません。
スポーツで何か技を習えば、それを練習します。
その中で自分なりのやり方を見つけるかもしれません。
ようは、やりようですよ。