えぇぇ! ホントですか!?
失礼しました、サラシナコハルといいます。よろしくお願いします。
今ガッツリ手直ししてる長編が努力、友情、勝利のいわゆるジャンプの三大テーマ的な内容なんですが、アウトなのか!?
超能力とか特別な力を急に手に入れヒーローになっていくお話が多い気はします。とはいえ、ソレがすべてとは思いません。
私は「昭和」ライダーが好きなので、「平成」ライダーの武器を持って戦うことに違和感を覚えます。
しかし、ライダーであれ、ガンダムであれ、続いていくにつれ「かっこいい武器とか付属品」が目立つようになったと思います。
グッズ販売云々と聞いたことがありますが、わかりやすい「力の象徴」が好まれるのだと思います。
ドラゴンボールでも、「界王拳20倍」より「スーパーサイヤ人」のほうが強そうに見えました。(私はカイオウケンがあるじゃないか! と思ってたほうですが)
今、本棚を見渡してみても、凡人が努力で強くなっていった話は「史上最強の弟子ケンイチ」 とか「はじめの一歩」 でしょうか。
他にも努力をすることが描かれてはいますが、大抵「生まれつき」の能力があったり「特別な」何かを得ています。(ケンイチも特別な師匠は居ますが……)
あとは、日々ロックでしょうか。彼は凡人とは思えないのですが……。
読んでいるものが偏っているからなのか、あまり良いものが出てきません。ただ、どの作品も「努力」自体が否定されてるものは無く、強くなるために必要であると認識されていると思います。
「はじめの一歩」からの引用ですが。
「努力するものがすべて報われるとは限らん。しかし、成功するものはすべからく努力をしている」
はじめの一歩
会長カッコイイと思いました。
登場時に万能な人間でも、過去には挫折があり、努力し今の力を身につけたというものも多いです。
そういう作品に触れているからか、努力をする姿はカッコイイと思えます。
ただ、現実に妹がいる同級生は「かわいい妹萌えなんかありえない」といいますし、私には幼馴染の姉妹が居ますが「漫画のようなかわいい幼馴染など、居ない!」と精一杯叫びます。そしてそんなシチュはありえないとも!
……興奮してしまいました、申し訳ない。
作家も芸人も俳優も。誰かを「楽しませる」ことが仕事だと思います。
なので避けるべきものがあるのなら避けるべきだと、思うのですが……。
「敵が強くて勝てないよ!」
「この武器をお使いよ」
「やったぁ勝てた!」
これじゃぁ魅力なんて無いわけです。
サッカー選手も野球選手もバスケット選手も卓球選手も。
スポーツに限らずすべてのことは「泥臭く努力を重ねた」から今があるので、その根底を外してはいけないのだと思います。
「ただ練習すればいい」泥臭さではなく、「強くなるために必要な練習」に打ち込む姿が必要なのではないでしょうか。
ライトノベルを含めた小説と映像(漫画含め)の違いは、目の前に提示されるか、想像するかということじゃないでしょうか。
そのため、想像しにくい努力というのが避けられる=泥臭い努力が避けられる傾向なのではないかと。
……偉そうに講釈垂れてますね、恥ずかしいですね。
こ、ここら辺で、失礼します! それでは!
この問題の根底にあるのは『今の若い子たちは努力が嫌いか否か』と言う単純な図式ではないと仏樹は考えております。
勿論人間が何かをなしえるのに努力が必要な事は、若い子でもしっかりわかっているでしょう。
努力と言うよりも、それに付随する『根性』や『精神』と言ったものが嫌われる原因なのではないでしょうか。
かくゆうわたくしも『根性』や『精神』のようなものに嫌悪感を覚えるし、それを前面に出す松○修○とか大嫌いです。
努力を努力として汗臭く書いてしまうと、それはそれで避けられる。これはほぼ間違いないでしょう。
問題の本質としてあるのは、努力している事をにおわせたとしても、それを受け取る想像力が足りていない。想像力を書き立てる描写が出来ない。その双方の問題なのだと思います。
それは決して『読者が努力は嫌いだから、書かなくていいや。能力を持っていていいじゃん』で方が付く話ではないと、思う仏樹であります。
>そもそも若者の多くが努力を嫌うのは日本の(?)風潮でもありますしね。
まさにその通りで、現代日本社会は努力・忍耐・根性に共感が得られない、ということです。
高度経済成長の頃は、努力や忍耐をよしとした社会であったのが、ハイテク産業の成長や円高不況によって徐々に敬遠されるようになり、バブル景気によって楽で便利な方が良いと、一気に価値観の転換が行われました。
で、なぜ今話題になっているかは、まず世代交代がほぼ完了してしまったことと、SNSの発達とネットにおけるマスコミ活動の活発化が原因かと思われます。
そもそも何を言いたいのかいまいち分りませんね。
>このような『努力を嫌う』風潮は一過性のものだと思いますか?
それを明確に答える事ができる人物がいると思われますか?
一過性なら『流行』慢性的なら『王道』になるだけですよ。
>そうでないとすれば、今のラノベ業界でウケようと思ったら、努力をする主人公は書かない方が無難なのでしょうか?
今のラノベ業界にウケなくて、何時の何処の業界にウケる気でしょう?
ニーズに合わせる気が無いなら、自分で流行を作るしかないでしょうね。
ただそれだけの、簡単な話ですよ。
まず、わたし自身がラノベ、つまり「ライトノベル」という存在を知ったのが、アニメからでした。それはまぁ、主人公ではないけど、最強キャラがいて……という感じのやつです。
努力しないで、平凡な日常を描いたりとか、いつの間にか「選ばれし者」みたいになってたり、ある日突然美少女が…とかだったり、ご指摘されたように、よく見られる傾向です。そしてさらに付け加えるなら、主人公(男)が美少女を好き、と言うより「彼女たちに好かれる、好かれてしまう」傾向があります。
わたしなりに分析してみたところ、これはまさしく近年の中高生の傾向、というより望んでいる傾向(願望)ではないか! という結果になりました。
そうなんですね。実は中学生、高校生は特殊な力を欲してたりだとか、美少女に好かれたかったりだとか、選ばれし存在になりたいだとか、そんなことを思う傾向にあるのです。
でもさらに分析を続けると、もっと面白いことが当然推測されます。それはですね、「近年の彼らが、そうした内容を求めているから、ラノベの志向がそうなった」のではなく、「ライトノベルがそうした考えを浮かばせたから、彼らがそれらを望むようになった」のです。
さて、これがつまるところの結果です。出版業界の一事情としてみるなら、商業がよく用いる「先導需要」ですね。
しかし、こと文学となると、先の傾向は歓迎されたものではないでしょう。実際重症になれば現実を見ないほどです。
結局何が言いたいか、と言うとこれはあなたがおっしゃるように「一過性」である、ということです。というのも読者はそのうち、こうした傾向を志向するラノベに飽きてくるでしょう。
先導需要から、供給側の飽きが来て、やがて衰退に向かうというのは、出版業界では数世紀に渡って繰り返されてきたことです。
ですから、あまり必要以上に憂慮することでもないと思います。(歓迎しえないことではありますが)
以上、一私見でした。
どうも、サイラスです。
まず、僕の答えとしては、文章媒体では、努力するという行為を描くのは、向かないという感覚があります。
というのも、努力する主人公が減ったかというとそうではなく、エンターテイメントだと、そうではありません。
但し、それが通じているのは、漫画やアニメといった絵メインにするのが、ほとんどです。やはり、頑張る主人公の姿と心理が同時に見れる(疑似体験できる)と見る側の共感をやります。ただ、これを、ラノベでやると、心理面はいいですが、どうしても姿が見えづらく、表そうとすると文章量が増えてしまいます。
実は、これって、今の大人が子供を努力を促すのとよく似ています。口(文章)では、色々と言う割には、姿勢が伴わない(姿が見えない)。そんなもの今の読者は見たくないと思います。ラノベも我々のことをいじめるのか!という感覚にもなります。努力を嫌う風潮よりは、元々、媒体の性質上、相性が悪く、そこに、今の大人の姿が被って、拍車が掛かったというのがしっくりきます。
> このような『努力を嫌う』風潮は一過性のものだと思いますか?
一過性になると思います。というのも、今のラノベは、アニメ化や漫画化しやすい。つまり、努力を描写するのに向く形になる可能性が高いため、努力する主人公が受け入れられると思います。
ただし、今までどおりの積み上げていく努力(スポコンを連想してみるといいとも思います)ではなく、選択ができる努力をした主人公が受け入れらると思います。何故なら、今の成功者がこの形になっており、また、積み重ねる努力を妄信した人々がどういう結果を辿ったか、若者達は学んでいるため、今までのどうりの努力する主人公だと通じなくなる可能性は高いです。
以上です。では。
「努力描写が避けられる」と「努力する主人公に好感が持てない」は違うと思います。
よっぽどひねくれた人でない限りは「努力しない主人公かっこいい!自分もこうありたい!」なんて思いを抱くことはありませんよ。
描写がされない一番の理由は「『読者の共感を得られるような』努力型主人公はとてつもなく難しいから」、この一言に尽きるでしょう。
テストで90点を取っていた生徒が努力して100点を取りました。これはとてもリアリティのある話ですが、活冷茶さんはそこに感情移入できるでしょうか? 無理ですよね。90点取れる能力があれば、そりゃ100点だって取れるに決まってるじゃん。絶対そうなります。
では、のび太みたいに0点ばっかり取っていて自分の学力に絶大なコンプレックスを持っている生徒が100点を取ったら? これはすごいですよね。まさしく劇的ビフォーアフターですよ。
ただし、ここで問題になるのが「じゃあ現実にどうやってそれを形にするの?」ということです。
この研究所に来ている人は読書したりネットで文章を読み書きしているので、流石にのび太レベルの「基礎学力が超危ない(コンビニでおつりの計算ができないレベルの)人」はまずいないでしょう。上の例で言うなら最低50点はあるかと。
しかし、そんな我々の中に東大生や京大生が何人いるでしょうか?間違いなく1%未満です。
現実において50点(自分の学力)を100点(東大京大レベルの学力)にさえできないのに、どうして物語の中でリアリティがあって読者の心を揺さぶる(0点を100点にする)成長物語が書けるでしょうか。そんな方法があるなら自分が成功してますよね。
これは勉強に限った話ではないでしょう。ほかの物事だってそうです。
残酷ですが、成功する一番の要因は「生まれた環境がどれだけ恵まれていたか」に集約されてしまいます。
その「生育格差」を実社会で覆すことが困難である以上、「努力して成功する」というモデルをラノベで描写することだって、また困難なことであるのは言うまでもありません。
こんにちは。旧蒼占い師と申します。
「努力して成功する」モデルをラノベで描写することは、そんなに難しいことではありません。まぁ、そもそもわたしは「ライトノベル」というジャンルを一般文芸と切り離して考えたりはしません。
ですから、敢えて、それらから「努力して成功する」パターンを考えてみたら、数え切れないほどの、類小説があります。
つまり、ラノベにおいてもそれが可能だということです。
なるほど、確かに我々はそんなに頭が良くはなく、凡人かもしれません。しかしそれでも、あなたの述べたいことは、こと文学美、創造力、表現力の世界では全く、当てはまらないでしょう。
ドストエフスキーや、ディケンズは皆が称賛し、羨むほどの高学力の持ち主でしたでしょうか? 逆に東大京大を卒業した作家の中に人の心を掴んで離さない傑作を書いた人がたくさんいたでしょか?
もし、意図が違ったら申し訳ないですが、先方が出された例があまりに場違いに映ったものですから。
私は「読者に」避けられているわけではないと思います。
ずっと以前から天才タイプの主人公、つまり主人公は主人公の資格(才能)があるから主人公なんだ、という考えが多くあります。
凡人はそれを引き立てるためにいるようなものですが、ダイの大冒険にでてくるポップという冴えない魔法使いは引き立て役から努力タイプになって、その頃からチラホラ努力型のサブキャラにスポットが当てられる機会は増えていると思います。
ではなぜそれが主人公にはないのか。
あるっちゃあります。修行シーン。
ルールは簡単、一度修行場に入ったら終えるか死ぬまで出られない。一つの試練で一つの能力が手に入る。スピード、パワー、魔力、総合力…
ベタですね。
これはゲームで言うところのミニゲームやクエスト的な位置づけで、メインストーリーは一切進まず止まっちゃうわけです。
今でこそベタな修行シーンですが、メインストーリーが進まない退屈な修行シーンを面白くしようと考えた結果で、思いついた人は凄いと思います。
ですが、それ以上を思いつける人がいない。
いま同じ修行を書けばベタになる。でもそれ以外の修行は地味だしそれ以上の修行は思いつかない。
だからカット。だってメインストーリー進まないしさ。読者の興味はコッチでしょ?
といった感じで、「作者」に避けられてるだけだと思います。
そうでなくとも努力型は書くのに時間がかかります。
長い下積み時代を経て何かの切欠で強くなり始めた主人公は努力型と言えますが、苦労ばかりする不幸な少年が何かの切欠で強くなるという図は近年の典型ですね。
これらは長く書いてるか短く収めたかの違いで、やってることはたいして変わりありません。
まあ、だからこそ天才主人公との比較として、努力型のサブキャラを入れるのは簡単なんですが。
長い間下積み時代を書くというのは努力型には必要なことですが、一冊出せるかという作家が書くとして、では、それは販売において必要なことでしょうか。
有名作家がシリーズ前提で書くならともかく、無名作家が、ましてや我々のようなデビュー前作家が出来る構成ではありません。
編集さんに没られるのが関の山です。
結果、世にでること無く、相対的に努力型の主人公が少ない現在があるのだと思います。
皆さんの言うとおり、近年は「努力」が嫌われてるような風潮はあると思います。
でも、天才の横にいる凡人が活躍する話って私はけっこう好きだし、漫画といった少年たちの流行を見るに、そういう展開が「避けられてる」わけではないかと。
ワンピで言えばウソップ、ナルトで言えばロック・リー、人気ないわけじゃないしさ。