火花さんの質問 2013年02月24日
今まで長編を三作ほどですが書きました。
ですが掌編・中編は書いたことがないです。
新人賞の投稿を視野にいれているため長編をかいているのですが、それだけでいいのでしょうか?
賞関係なしにしても、どうしても話や設定が膨大になり書けません。長編でも投稿のため規定ページ数に収まるように世界を狭くしたり削ったりの繰り返しです。
こんな自分でも掌編をかけるのか?掌編は書くべきなのか?
それが気になります。
●答え●
ALFと申します。
小説は大きく分けると、「掌編」と「短編以上」に分けられると思っています。
長編は、短編での起承転結をいくつも組み合わせて一つの大きな起承転結を作り上げているだけですが、掌編は全く異なります。
たった4000字の中でストーリーをくみ上げるのは至難の業で、心を動かすことはほとんど不可能に近いです。
星新一氏を見れば分かると思いますが、なにか突飛なネタをどう驚きをもって見せるかという一点に注力する必要があります。
長編の尺を短くまとめたいのであれば、短編(2万字くらい)を書く練習してみた方が有効だと思いますよ。
本気で新人賞受賞を目指しているのなら、掌編を書く必要はありません。
以上です。
僕は主に掌短編を書いてるので自分に基づいて言いますと、僕は文章鍛錬の為に掌短編を書いてます。
既に長編を書いてるなら鍛錬出来てると思いますから、別に書かなくてもいいんじゃないですかね。
僕が掌短編を書いてるもう一つの理由として、掌短編はアイデアを早く形として出せるという点があります。
僕の場合アイデアだけは有り余ってパンクするぐらいのでアイデアを消化する為に、いわば趣味と実益を兼ねて書いてますね。
そういう意味ではアイデアを形にする訓練、アイデアを物語や設定としてどう加工していくのかという鍛錬にもなります。
起承転結とオチの練習としても、これらも思考と執筆を繰り返す事で有用なスキルアップになり得ると思ってます。
気になったのは話や設定が膨大になって書けないという点。不自由さを感じますね。
例えば長編でも話的にこの部分は短くまとめて済ませたいなとか、ここの設定は端的にしたいとか、それらがし辛いという事じゃないですか?
そこを改善したいのなら掌短編を書いて練習してみるというのもいいと思いますよ。
もとを辿れば、掌編ってのは詩と同じ立ち位置です。例えば、川端康成の掌編は小説だと思ってはいけない、ちょっと長めの詩だと思うことが重要です。
話がそれましたが、長編を書く方にとって掌編を書く意味は、一切ないと思います。文章を鍛えることに関しては、添削用掲示板という便利なものがありますしね。
それと、膨大な世界観なんて素晴らしいじゃないですか!設定なんて膨大でなんぼですよ!
膨大な世界観で書くことのコツとしては、その世界で起きる事件を主人公一人にやらせないことです。
例えば、Aという世界で、魔王復活やら、B国転覆の危機やら、家出王女様の捜索やら、神が下りてくるやら…そんなこと全てを一人の主人公にやらせたら、そりゃ話も長くなります。それに、一つの事件に関して、どんだけ引っ張っても原稿用紙700枚(長編の間で前後編に分ける)は超えないでしょう。同じ世界観で、一つ一つの事件を別々の主人公にやらせれば、そこまで長くなることはないと思います。
それでは頑張ってください。
こんにちは。
長編・掌編それぞれに書きやすい内容・展開というのはあるでしょうが、どちらにしても世界をどのように切り取って読者に提示するかという方法の違いです。
火花さんに掌編を書く意味があるとしたら、その切り取り方の訓練ではないでしょうか。
世界を狭くするのではなく、一部から全体を想像させる様にすることは表現力の向上につながるのではと思います。
関連性のある掌編を並べれば長編(と言えなくもないモノ)になるし、このとき一個の掌編を「話題が小分けされてる」と考えれば長編の構造をいじりやすい。
プログラミングのオブジェクト指向に似てるかなぁ、と思ったりします。
まあ、これは理論上というか理想論的な話なので、実際は「最初から一個の話として書くより、複数の話の集合体であったほうがネタを追加しやすいし脇道にそれてもすぐ復帰できる」という程度だったりします。
>どうしても話や設定が膨大になり書けません。
そういう人こそ、その膨大な設定やネタを長編ではなく掌編で一つ一つ書いてまとめるという技術が必要なんじゃないかな、と思ったり。
もちろんこれは私の書き方なので、書き方は人それぞれ違うし、ただ一つの意見であってそれ以上ではありません。
ぶっちゃけ書きたいように書くのが一番だし、長編を書けているのなら「掌編を書くべきか?」なんて気にする必要はないと思います。
お仕事として書くようになると規定がいつも同じとは限りませんが、長編だろうと掌編だろうと話をまとめるだけの構成力があれば同じようなものです。
掌編にして書きたい物語があるなら書けば良いんです。短く収めた方がおもしろくなりそうな話を思いつかないのなら、無理に書くメリットは一切ありません。
掌編や中編を書かれている人はそれに適した物語を思いついて書いているのであって、妙な使命感や「書かねばなるまい」なんて思考はみじんもありません。
というかそんな思考で物語が生まれるのはちょっと嫌かもしれません。
短い話が書けないことに自分の未熟さを感じているのでしょうか。確かにいろんな長さの物語を自在に操れれば、それはすごいことだと思います。目指されるおつもりなら頑張ってみてもよいかと。
きちんと考えれば掌や中編にふさわしい長さのお話が思いつくと思います。ただ長い話しかかけないというのも決して悪いことではないと私は考えます。あなたの長編がおもしろくてそれを求める人がいるのであればなおさらです。
私の体験をお話しします。
掌編を書くことは、技術的な向上を求める点で、非常に効果があると思います。
ご質問の火花さんは、とかく冗長になりがちでお困りの様子。
私も同じ症状で途方にくれていました。
投稿を始めて数編の長編を書いたあと、家族に掌編の投稿を勧められてトライしました。無論経験はありません。
(指摘者は自費出版経験のある人物です)
やってみたところ、思ったとおり規定枚数の数倍になりました。
最初どうしたら収まるのか見当がつきませんでした。
そして「なくても話に支障のない部分を探しなさい」と家族にアドバイスを受け、「物語のエッセンスを損なわないよう」に全体をシェイプしていきました。
イメージでいうと、「おさらいムービー」とか「ダイジェスト版」を作る感覚でしょうか。
ひどく頭を使う作業でしたが、何度も訓練するうちに、自分がいかにムダなことを書いているかを自覚するに至りました。
物事をシンプルにする能力が高ければ、長編においても、書きたいことを何倍も盛り込むことが出来るようになります。また、読みやすさもアップすること請け合いです。
私は文節の位置がヘンテコになりやすい症状があり、とかく文章が冗長になったり、意味が重複することが多かったのですが、掌編を何十回も読んで直してを繰り返していくうちに、自分の弱点に気付くことが出来ました。
それこそエピソードごと削除したり、設定を変えることもありました。
長編では通しで何十回も読み込むことはあまりしませんが、十枚~三十枚程度のものであれば何度も読めますよね。
以下、私も指摘を受けた部分なのでお話しします。
*
情報量の多い作品を書くにあたって「読者は筆者が思うほど情報を求めてはいない」のが実情で、読者はお手軽に作品世界を楽しみたいだけなのです。
設定はしっかりあっても構わない。でも、設定が読みたいのであればTRPGのルールブックでも買えばすむことです。
そういった設定に乗っかった「お話し」が読みたいのですから、それを楽しむのに最低限必要な設定を提示すればよいのです。
*
……と指摘されました。
納得いくいかないは置いておくとして、私は正論だと思っています。
実際、説明のやたら長ったらしい作品は途中で読みたくなくなるでしょう。
世にそういう物もありますが、広く受け入れられていないことも見て取れるとは思います。
「売れている」ものが正義でないことは、大量のステマで本を売りさばいている出版社の姿勢を見ればいわずもがなでしょう。
掌編の話にもどりますが、プロにもなれば、短編の雑誌掲載等も必須となるでしょう。書けないでは済まされなくなる時が来ます。
ネタがなければ、設定がなくても書ける勇者魔王ものでも学園ものでもいい。
今後商品を作る以上、練習するのがプロとして当たり前ですよね。
人様に見せる見せない、面白い面白くないは置いておくとしても、練習として情報を圧縮・単純化する技術を身につけるために、掌編を書くことを強くオススメします。
将来きっと武器になるはずですから。
一長一短です。
掌編は掌編なりに、少ない枚数で物語を完結させなきゃいけないので、それなりの腕を要します。
長編は大河のようなひとつの物語を練らなきゃいけません。
書いてみたいなら書くべきですが、目的を持たないと時間の浪費にしかなりませんよ。