ルキアさんの質問 2012年12月07日
こんばんは。いつもお世話になってます。
2つ質問があるんですが、一つは視点のズレです。
普段一人称と三人称を、作品ごとに使い分けていると、一人称の主人公が「僕は赤くなった」と語りだしたりして、視点がずれた言い方になることがあって困っています。
初歩的なことですが、このミスを防ぐために有効な書き方ってあるでしょうか?
もう一つ、映像のブレです。
私は書いてる最中に画像があまり浮かばす、文章が先行して頭に浮かんでしまうタイプです。
その結果起きる現象として、東京タワーを遠くから描写していたにも関わらず、いきなり近づいた感じの描写になったりします。
一応、これらの問題は推敲することで解決させていますが、長編だとミスを潰すのが大変すぎます。
最初からこの2つの初歩的ミスを犯さない方法を、どなたか教えてください。
●答え●
二つの悩みを解決するキーワードは「カメラを意識する」かなあ。
一人称は主人公がハンディカムカメラを持ち、自分が見たものを見たまま撮影している状態です。
なので「僕は赤くなった」などと言うことはありません。
三人称とは第三者がカメラを持ち、近くから主人公を撮影している状態です。
だから「主人公は赤くなった」と言っても不思議はありません。
映像のブレは、何が一番描きたいのか意識できてないんだと思います。
まあこのサイトでも読んでください。
独創的な文章は「視点」から
こんばんは。
二つの質問をされていますが、本質的には同じことのように思えます。
どちらも視点人物と作者が同化できているか(読者を同化させることができているかどうか)という問題ではないでしょうか?
>一人称の主人公が「僕は赤くなった」と語りだしたりして
これは致命的なミスではないと思いますが、自分の顔が赤くなってるのを見ることはできないはずなので少しヘン、ということですね?
>東京タワーを遠くから描写していたにも関わらず、いきなり近づいた感じの描写になったりします
前者はカメラが視点人物から飛び出しているということ。後者は視点人物がワープしているということ。どちらも現実には有り得ないので、読者が読んでいて違和感を抱く恐れがあるということだと思います。
解決策ですが。
その前に、「上記のようなことに無頓着に小説を書いている人はプロの中にもいる」ということを、一応指摘しておきます。私はあまり好きではありませんが、書きようによっては通用するということなのでしょう。
で、解決策。……いや、解決策というほどのものかどうか自信はありませんが(汗
>私は書いてる最中に画像があまり浮かばす、文章が先行して頭に浮かんでしまうタイプです
この一文の中に、すでに答えが含まれているような気がします。
書き手自身が遠くから東京タワーを眺めているつもりになって、その情景を思い浮かべながら書けば、視点がワープすることはないのではないでしょうか? いや、それができないタイプなのだと言われると困るのですが。
自分が体験しているつもりになって情景をイメージする習慣を身につける他に方法はない。私には、そうとしか言えません。
「僕は赤くなった」にしても。自分が何かに動揺したり恥ずかしがったりしている時を思い出し、そんな時の「体感」としてどうなるのか想像してみるしかないのでは?
例えば、僕は顔が熱くなるのを感じた。などでしょうか? 表現が上手いか下手かは別として、自然にそんなような書き方になるのではないかと思います。
■視点のズレを防ぐには
視点のズレを防ぐ方法は、書き手が主人公になりきることです。
そして、主人公が見えないものは、描写できないということを心に留めておきましょう。
「主人公の視線を想像する」というよりは、「主人公そのものになりきる」イメージがよいと思います。
また、これは持論でもありますが、三人称一視点の場合も「○○は顔が赤くなった」と書かない方がよいでしょう。
新人賞公募の際には、視線のブレと見なされる恐れがあります。
■三人称で、主人公の顔を描写する危険性について
たとえば、太郎と花子が会話をしているシーン。
(三人称で主人公は太郎)
1.「私、好きな人がいるの」
2.花子の愛の言葉に、太郎は相好を崩した。
3.「それはボクのことだね?」
4.花子は目を丸くした。
5.「いいえ、違うわ。次郎さんのことよ」
6.太郎は顔が赤くなった。
主人公である太郎の顔を描写しているのは「2.」「6.」ですね。
太郎の目線と同じように設置していた視点カメラを反転させ、「太郎の顔」に向けただけです。
しかし、見ようによっては「花子に視点が移動した」ともとれます。
海外のミステリーではよくあるのですが、そのことに強烈な違和感を覚える日本人が多いのです。
ひょっとすると、日本語には三人称多視点が向かないのかもしれません。
日本語は、主語を省いても成立するほど動詞に力があります。
その反面、誰視点なのかを文脈ではっきりさせたがるというか……。
(重ねて申し上げますが、飽くまで私個人の考えです)
■映像のブレを防ぐには
映像のブレを防ぐのは、動きをイメージすることです。
写真のような一枚絵ではなく、映画のようなカメラワークを意識しましょう。
カメラマンの気持ちになって、カメラをどう動かすかを考えながら筆を走らせましょう。
そうすれば、推敲にかける時間は少なくなるでしょう。
以上が、一般的な回答になると思います。
しかし、「作品を一気に書きあげてから推敲を丁寧にする」という今のやりかたが、ルキア様の性に合っているという場合もあります。私の意見は参考程度にして、ご自身に合っていると思う方法を探してみてください。
ミスしない方法は、ミスしないよう心掛けるだけです。
こうすればミスしなくなりますよ、なんていう安易な手段はありません。。
身も蓋もないことを言いますが、書き方なんてぶっちゃけ何でも構わないはずですよ。
ここ最近の電撃大賞受賞作だって三人称と一人称がごっちゃになってる作品けっこうあるじゃないですか。それでも商用として成り立ってますよね。つまりそれが正義です。
書き方にはまさに無限の可能性があるので、自分なりのそれを見つけましょう。理解できないと言われたら直せば良し、言われなければ直さなくて良し。
こんにちは、雷です。
飛車丸さんもおっしゃっているように、「ミスしないよう心掛ける」しかないでしょう。
ルキアさんは「視点がずれた」ことも、「映像がブレている」ことも自覚しています。
イメージしたことを文章に書き起こした後、その文章がおかしいことに気づいているわけです。
一人称視点での表現の制約や、カメラワークと文章の連関についても承知済みのことと思います。
だったら、最初からミスをしない方法は、イメージしたことを文章に書き起こす段階で、十分に表現を吟味し、言葉を選んだうえで文章を書くしかありません。
そして、この表現を吟味したり言葉を選んだりするときの手助けとなるのが、主人公になりきること、カメラワークを意識することです。
ひょっとしてルキアさんは、思いついた文章をひょいひょい安易に書き出していませんか。
もしそうならば、一度立ち止まって表現を吟味し、言葉を選んでから文章を書き出してみてください。
これを実践していけば、たとえば、一人称なのにまるで三人称のような表現をしてみたり、三人称の中に一人称っぽい表現を挟み込んで(傍目には視点が混乱しているように見せて)みたり、三人称一視点の文体を多視点(神視点)のように振る舞わせてみたりしても、それらが小説の表現方法としてアリ――正統な文章表現であることも分かってきます。
これは余談でしたね(笑)。
すいませんが
>たとえば、一人称なのにまるで三人称のような表現をしてみたり、
三人称の中に一人称っぽい表現を挟み込んで(傍目には視点が混乱しているように見せて)みたり、
三人称一視点の文体を多視点(神視点)のように振る舞わせてみたりしても、
それらが小説の表現方法としてアリ――正統な文章表現であることも分かってきます。
の、部分の説明を出来ればよろしくお願いします。
どういったときに使われ、どういう効果をもたらすのでしょうか?
また来ました、雷です。
ひとつひとつ説明してみましょう。
> > 一人称なのにまるで三人称のような表現をしてみたり、
これは、ルキアさんの質問にある「僕は赤くなった」がいい例ですね。
一人称文体では、ふつう視点者の目に触れない情報を書き出すことはできません。
しかし「恥ずかしさで頬がむずがゆくなった」とか「はらわたが煮えくりかえる思いがした」のように、目に触れなくても感覚的に理解できる表現をするのが「まどろっこしい」こともあるはずです。
むしろ「恥ずかしさで耳まで真っ赤になった」とか「顔を真っ赤にして怒った」と書いた方が、読者にとっては理解しやすい場合もあります。
もちろん、くりかえしますが、一人称文体では、ふつう視点者の目に触れない情報を書き出すことはできません。
しかし、この「ふつう」を踏まえたうえで「ふつうとは違う」表現をする自由を、僕たち書き手が自ら捨てるのは、非常にもったいないことだと考えています。
> > 三人称の中に一人称っぽい表現を挟み込んで(傍目には視点が混乱しているように見せて)みたり、
いちばん分かりやすいのは、台詞や心の声を地の文に直接書き出す手法でしょうか。
ジョバンニはまっ赤になってうなずきました。けれどもいつかジョバンニの眼のなかには涙がいっぱいになりました。“そうだ僕は知っていたのだ、勿論カムパネルラも知っている、それはいつかカムパネルラのお父さんの博士のうちでカムパネルラといっしょに読んだ雑誌のなかにあったのだ。
『銀河鉄道の夜』 著者・宮沢賢治
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中の一節です。
“”でくくった部分が主人公の心の声にあたりますが、原文では、そのことを示す記号は使われておらず、「とジョバンニは思った。」というように補足する文章も見当たりません。
こうした文章によって期待できる効果というと、登場人物の心情がより伝わりやすいことでしょうか。
> > 三人称一視点の文体を多視点(神視点)のように振る舞わせてみたり
これを言い換えると、主人公以外の登場人物が動作の主体である文章を書き出す、ですかね。
同じく『銀河鉄道の夜』から、
ジョバンニは勢いきおいよく立ちあがりましたが、立って見るともうはっきりとそれを答えることができないのでした。“ザネリが前の席からふりかえって、ジョバンニを見てくすっとわらいました。”ジョバンニはもうどぎまぎしてまっ赤になってしまいました。
『銀河鉄道の夜』 著者・宮沢賢治
“”でくくった部分は、主人公以外の人物が動作の主体になっています。
これを、へたに主人公が受け身となる文章に書き換えると、非常にまどろっこしいことになるでしょう。
三人称一視点の文体なのに、とつぜん多視点になったようにも見えるかもしれませんが、おそらく、この形がもっとも読みやすくスマートな書き方ではないでしょうか。
(1)作品ごとに人称を変えるのはいいのですが、気分で決めていませんか? 三人称だから出来る表現、一人称だから出来る表現を意識した上で意図的に決めていますか? しっかりと物語と用途に合わせて人称を決めましょう。そうしたらまずぶれないので。
(2)想像力不足。しっかりとイメージしたものを描写出来るように勤めましょう。まず、頭に映像が無いのに文章として書き起こすことは出来ません。より鮮明に映像を思い浮かべた上で書いてはどうでしょうか。
他の方も仰っている事ですが、視点のズレも映像のズレも、自分の書く文章をしっかり映像的なイメージに出来ていないのが問題だと感じますね。
解決策としては『意識する』に尽きるかと思います。
それか三人称か一人称専門になる。そうすれば視点のズレは解消されるはずです、切り替えの必要が無くなりますからね。
あと映像のブレは、まぁ三人称なら場面転換として工夫してやれば、何とかなるかもしれません。
結論としては『視点者と映像的なイメージを意識するor三人称専門になる』かな、と思います。後者は無理やりな解決策ですが、ミスをしない方法って基本無いんですよね。
既に答えが出尽くした感じで今更来てもあれなのですが、一つだけ。
『頭の中に映像を想像する』ということで結論が出ていますが、まぁそれをしろと言われてもそう簡単にできるものではないでしょう。
そこで私から一つのコツとして、『漫画かアニメか映画か、どれでも良いけれどその中から自分が一番好きな媒体で想像する』という手段を挙げさせていただきます。
私は小説家を志望しているくせに、小説より漫画の方をよく読んで研究もしています。まぁこの際、それの良し悪しは置いておくとして。頭の中に映像を作る際、これまで読み込んできたたくさんの漫画の中から似たようなものを持ってきて、読み込みます。で、その展開のさせ方、表情、魅せ方などをインプットします。
そして、それをもとに自分の作品をイメージするのです。この場面で主人公はこんな表情で、それに対してヒロインはこう反応し、こんな行動に移す、といった具合に。私は実際にこの方法で、キャラクターの外見などは全く定まっていなくても場面ごとのイメージは作れました。
向き不向きはあると思うのですが、自分の好きな作品をいくつか読み込んでいくと、映像を作るという観点からも応用出来て結構便利ですよ。
こんにちは、クマ太郎と申します
視点のズレ、ですか。ふむふむ。
まず、この視点のブレがどうしてよくないのか、誰に対してデメリットがあるのか、それを考えてください。
それは他ならぬ作者であるあなたです。
恋愛ドラマで、主人公があこがれる人の心理が読者にわかってしまったら?
推理ドラマで、犯人の心理がわかってしまったら?
もう誰も続きを読みたいと思いませんよね
視点のブレは、これと同じくらいのデメリットを作者にもたらすのです。
もちろん、何を考えているか、ばらしていいキャラはいます。一人称、あるいは三人称でも誰かの視点にすえた書き方なんかがそれにあたります。
けれど、全員が何を考えているかわかってしまったら?
そんな小説、どう思われますか?読みたいと思われますか?
実生活で、他人の考えていることが透けて見えるようなものです。
どう考えてもおかしいですよね?
それともう一つ、映像のブレですが
「みかんを見たことのない人に、蜜柑を文章で説明してみてください」
外見、味も含めてです。
いい練習になります
きっちり相手に伝える必要はないんです。みかんってどんな果物だろう、食ってみたいと、思わせる文章がかければそれでよいのではありませんか?最初のうちはね。
東京タワーが近くに見えたり遠くに見えたりすることも、読者はそんなに気にしてはいません。
読者が求めるのは、面白そうかそうでないか。それだけです。