すぎさんの質問 2012年11月03日
お久しぶりの方はお久しぶりです。はじめましての方ははじめまして。
皆様もご存じでしょうが、ルパン三世のアニメスペシャルが放送されましたね。
出来に関してはここで語ることではないと思いますので略させていただきますが、少し気になったことがあるので投稿させていただきます。
さて、もう説明する必要もないですが、主人公であるルパン三世には切っても離すことの出来ない相棒がいます。愛銃コンバットマグナムで敵を狩り、バーボンとマルボロを愛するクールな男、次元大介です。
ひょうきんでお茶目なルパンとは好対照な、男臭くてダンディなキャラクターとしての対比も、創作をする上ではすごく参考になる関係性なのではないかと個人的に思います。
そこでちょっと考えたのですが、次元のような「相棒」にあたるキャラクターは物語を進める上で非常に重宝します。主人公との軽妙な会話の相手にしてもそうですし、戦闘シーンなら言うに及ばず、どんな場面でもほぼオールラウンダーで顔を出すことが出来ます。
そういったキャラクターを自作で出したいのですが、「主人公の相棒である」と書いても、どうにも薄っぺらくなってしまいます。「相棒」というのは苦楽を共にするからこそ「相棒」なのであって、1からはじめる物語で「相棒なのだ」と書いても、読む側にとっては「ふーん、そう」としか感想を抱けないと思うんです。
次元は長い間ルパン三世としてのシリーズがあるからこそ、ルパンの相棒たり得るのだと思います。これを1から始める物語の場合、どのように扱えば「相棒」キャラを上手く引き出すことが出来ますでしょうか。やはり、会話の中でそれとなく「相棒」であることを読者に植え込むしか方法はないでしょうかね?
参考までに、ドラマシリーズの「相棒」では、主人公の片山右京と苦楽を共にすることで徐々に「相棒」になっていく物語だと理解しています。非常に面白い関係性だと思うのですが、これはどうしても長くシリーズを続けなくてはならないため、新人賞などでは使えないですね。
ルパンのような事例では、キノの旅でのキノとエルメスの関係が近いでしょうか。彼らは長い間一緒に旅をし苦楽を共にしていますが、物語としての一番最初は既に「相棒」である状態から始まります。キノは私見ですが、薄っぺらくはなかったように記憶しています。エルメスがバイクという、意志を持つとはいえ使役される物だからでしょうか。
以上、長くなりましたが、皆様のご意見を頂戴いたしたく投稿することにしました。よろしくお願いします。
●答え●
こんにちは。
気になったので、自分の考えを。
まずわたしはルパンシリーズはカリオストロの城位しか見たことは無かったんですが、最近見たルパンシリーズの峰不二子という女ってアニメでは、ルパンはまず一人でした。
そこで次元が確か同じ財宝だかを狙って来て、そこでルパンが次元の能力を認めて、“手を組む”となったのだと思います。それで結局最終回まで一緒居ました。
この、“手を組む”ってかなり使えるような気がします。
ワンピースのナミも最初は“手を組む”でしたし。
最初は同じ目的同士、手を組んでいたけどいつから一緒に居るのが当たり前になった……みたいな感じだと思うんですけど、やっぱり長くないと難しいんですかね。
個人的にはその相棒というのを中心に置いて話を書くとしたら、まず同じ物を狙っていたりして、お互いがお互いを補い合えるようなスペックの持ち主で最初は“手を組む”だけどそのうち大事になって、クライマックスで相棒のほうが離れちゃって助けに行く……みたいなのが王道かな? と思いました。なんか途中から言いたいことわかんなくなりましたけど、結局の所“手を組む”って結構使えるんじゃね? って話です。
では失礼しました。
仰っている通り「~の相棒である」のような直接的な表現を避けてみては如何でしょう?
そういった自己紹介を控えて、読者からすれば何故一緒に行動しているのかはっきり分からないけどどうやらパートナーらしい…くらいに。
後は第一章で『コイツらの日常はこんな感じだぜ』みたいな象徴的な事件を起こし解決に当たらせコンビネーションを見せつけるという手法はどうでしょう?
海外ドラマの原作小説で良く使われる手法ですね。
ドレスデン・ファイルのドレスデンとボブなどが確かそうだった筈です。
参考になれば幸いです。
おはようございます。
仰るようにルパン三世はシリーズになっていますから、次元大介というキャラはあらかじめ定着している状態です。でもルパンにもシリーズ第1作目はあったわけで。その冒頭で、別にルパンと次元が苦楽を共にした過去なんて描かれていませんでしたよ。それでも現在の一つ一つの言動によって、彼がルパンの無二の相棒であることはちゃんと表現されていたように思います。
一つの作品の中で重要なキャラをどう表現するかは、いろいろ手法があると思います。回想シーンを織り込んで過去のいきさつを見せるのも一つの手だし、上記のように現在の行動だけで印象付けるというやり方もあります。
>やはり、会話の中でそれとなく「相棒」であることを読者に植え込むしか方法はないでしょうかね?
そういうことだと思うし、それ以上だとも思います。単に会話のテクニックで設定を読者に知らせるという話ではなく。
例えば主人公がピンチの時にそのキャラがどういう行動を取るか。そんなことを積みかさねて描いていくのは、小手先の技術ではなく、作品の根幹につながる重要な部分だと思いますよ。
新人賞のような単発作品あるいはシリーズの1巻目にて、主人公にとって重要な相棒とはどのように書くべきか?
という趣旨であると解釈してみます。
まず、ドラマ「相棒」ですが、これはタイトルの通り、「相棒を描いた物語」という側面がありますので、最初からベストパートナーでは意味がなく、すぎさんが仰る通り「徐々に相棒になってゆく姿」を描いています。
これが新人賞では使えないと結論付けているようですが、私はここに反論がございます。
新人賞はページ数が限られているので長編を超える大巨編な構想は確かに無理がありますが、このテの話の第一巻とは、必ずしも相棒である必要はないし全てを書く必要もないと考えます。
例えば、主人公と相棒役はライバル関係(とは言わないまでも競争相手)として、中盤あるいは最後には協力し合い、敵を倒すなり事件を解決する。
反発しあう二人が共通する目的のために力を合わせる。という筋書きです。
どうでしょうか?
……これでは相棒であるとは言いがたいとお思いでしょう。私もそう思います。
ですが、読者はどう感じるでしょうか。
もちろん書き方、展開の仕方、最後の落とし方にもよりますが、
「ここから続く話(続巻)では、二人はコンビを組んでいるに違いない」
と思うのではないでしょうか。
相棒を書く必要はなく、相棒であると読者にイメージさせれば良い。と私は思うわけです。
つまり、「相棒をどう書くか」ではなく、「相棒をどう表現するか」ということですね。
いやいや、自分は次元のような相棒を書きたいんだ、と仰るのであれば、相棒の存在を読者に匂わせつつも序盤では一切登場させないというような、出さないことで主人公の相棒に対する信頼を表現するとか、一工夫が必要になりそうです。
主人公にとっては信頼できる相棒とはいえ、読者にとっては初見のキャラなので、読者が相棒に対し信頼できるかどうかが肝なのではないでしょうか。
ルパンはさすがに長いだけあって、今さら次元がルパンを本気で裏切るなんてあるはずがない、と我々視聴者は思いますしね。
私は自身の趣向として書かないで表現する方法をよく使いますが、キノの旅(ごめんなさい、未読です)の場合も、要するに相棒に対する(読者の)信頼が重要だと思います。
使役されているということは、裏切るはずがないわけで、信頼できる、というような感じでしょうか。
同時に旅という性質上バイクがなくなると困るわけで、主人公も相棒を信頼しているというのが設定からわかります。
例えばこれが、サイドカーで横に人間の相棒が乗っているという設定だったら薄っぺらくなってたのではないでしょうか。
だからこそ、バイクという信頼できる存在を相棒として表現したのでは。
まあ、作者としては一人旅じゃ会話文がなくなるからバイクをしゃべらせただけかもしれないけどw
原作の漫画の方は、読んだ事はありますか?
曖昧なのですが、最初はルパンが次元や五右衛門を嵌めて、仲間になる様に仕向けていたり・・・
勝負を仕掛け、その勝負に勝ったならと・・・
最初は、一人働きの泥棒として描かれていたかと・・・
そこから行動を共にし始め、色々と変化して行っていた様に思えた。
テレビの方では、既に定着していたから省かれていた様に思えたのですが、対等な仲だと言う事を前面に出していたかと・・・
どちらが主で、どちらが従と言うほどではなく。
どちらも主であり、従である様に描かれるから、そう思えたのではないかと愚考します。
物語りとしては、ルパンが計画し、次元が共に働く。
主犯・ルパン 共犯者・次元
次元は意見も出すし、反対もする。
それを、ルパンは聞きもするし、取り入れもする、反対もする。
一方的に命令はしていない。
頼んだり、願ったり・・・対等さを示しているかと・・・
それでも、喧嘩したり別れたり・・・
でも、お互いを見捨てられなかったり・・・
一方だけを主にしてしまえば、もう片方は薄く感じられてしまう。
対等に描くのであれば、どちらも主であり、従にもなり得ると考えるべきでは?
ルパン三世の場合は、ルパンが主で有る様に描かれる事が多いのですが、次元も主で有る様に描かれている場面もあります。
其々が主であり、その意見を尊重するから、対等に思えるのでは?
最初からでは無くても、お互いを尊重させると対等に描けるように思えたので、その様に考えてみました。
キノの場合は、エルメスは反対意見を言ったり、それはしないで欲しい事を伝え、それが叶わぬ事を知った上でも、反対したりしています。
キノの方も、それは聞いてあげたいけど、出来ない事だと判った上で、後でこうしてあげると言った事をしていたかと・・・
それが全て叶う訳ではないが、お互いを尊重しているから、相棒たり得ると捉えられたのでは?
完全に主従であれば、言われたがままに、示されたがままに・・・
相棒とは言えないのでは?
お互いが、主であり従である事を自覚して、それに対しての意見が言い合える事が、相棒と呼べる存在かと・・・
参考になるかは判りませんが、私はこう考えてみました。
夜分遅くに失礼、サイラスです。
ちょっとむずかしいですね。ただ、最初からどういう経緯で相棒になったかと、濃く書く必要なんてない気がします。
というのも、確かに相棒って要素は、物語の面白さや作品の拡張性を高める上ではいいと思います。しかし、すぎさんの文章を読んでいると、「相棒」というテーマを書きたいうより、「相棒」というツールを使って、物語を面白くしたいという意図が見られて、それは、ちょっと違うような印象を受けます(間違えていたら、ごめんなさい)。
物語を面白くしたかったら、恋人でも好敵手、下手したら特殊能力で充分いけるハズです。そうでないなら、あなたが、まず、相棒って何か、その相棒というキャラを使って、何を書きたいか考え直してはどうでしょうか?そのこだわりの正体が分かれば、描きたい相棒像や動かし方が見えて、キャラ厚くなると思います。
では。
背景・キャラ・相関関係がしっかりと作れているなら、会話させるだけで十分です。
ただこれだけだと不親切ですし、一つだけ言うなら、見るにせよ書くにせよ相棒という関係を考える際は、まずお互いが相手に対しどれだけの理解度を持っているか、というのを念頭においてみてください。
執筆歴数年の小僧っ子の意見、ということを念頭に置いて、意見をお聞き頂ければと思います。
個人的に、それはやはり書き手の巧さが問われるのではないかなと感じました。
要はそれは会話だし、展開だし、地の文だし、ともかくそういうものが全て引っくるまって一つの『相棒』という立ち位置を形成するんではないかなあと。
いや、俺は具体的な方法論を聞いてるんだよと言われればぐうの音も出ませんが……(←
最初から相棒という間柄を出すのは難しいですね。ただ、読者はやっぱり察しますよね。何となく分かる。あ、コイツらは相棒なんだなって。そういう典型的な雰囲気だったり、会話があると思います。要は地の文で説明するんじゃなくて、読者が察するようにする。あとは展開や会話で、読者のイメージがこいつらは相棒だと固定されるまで。
何というか、もうここまで長たらしく続けて申し訳ないんですが、手っ取り早いコツなんて自分は知りません(殴)。ごめんなさい。要は筆者の力量でしかないんじゃないかなあとしか。
一言で薄っぺらいと言っても、やはりすぎさんの薄っぺらいを具体的に理解することは出来ませんし……。
もしかしたら、全然薄っぺらくなんかなくて、すぎさんご自身の向上心がそれを許されていないだけなのかも知れませんし。
展開が拙ければ、活かせるように修正する。会話が拙ければ、それっぽく直す。地の文がアレなら、頑張る。
ともかく、そういう関係性は説明するもんではなくて、物語の中で読者に実感させていくものなのではないかなあと。
愚にも付かない意見を失礼しました(^_^;)
こんにちは、雷です。
興味深い話題ですので、遅ればせながら意見などを。
僕がいま書き進めている小説にも、メインキャラとして“相棒”たる二人組が登場します。
この二人は、昔からの長い付き合いという設定なので、互いの呼び名や話し方の遠慮の無さ、一緒に行動するとき、また不測の事態に対応するときの阿吽の呼吸を、丁寧に描くように心がけています。
> ドラマシリーズの「相棒」では、主人公の片山右京と苦楽を共にすることで徐々に「相棒」になっていく物語だと理解しています。
非常に面白い関係性だと思うのですが、これはどうしても長くシリーズを続けなくてはならないため、新人賞などでは使えないですね。
PreSeasonと呼ばれている単発ドラマ時代の第1回「相棒・警視庁ふたりだけの特命係」は、それこそ「1からはじまった物語」で、主人公の杉下右京と亀山薫は、物語冒頭では互いに直接の面識はありませんでした。
しかし物語が進むにしたがって、ふたりの協力関係が築かれていく様子が描かれ、「きっとこのふたりはうまくやっていけるだろうな」と視聴者に期待させる終わり方をします。
この「期待させる」演出というのも、物語中の随所に伏線を張ることで実現しています。
その後、2回の単発ドラマを経て、「相棒」は連続ドラマとしてシリーズ化されました。
連続ドラマ化してからは、相棒の片割れが薫、神戸尊、甲斐亨と交代しましたが、これも、薫は「昔からの相棒」として描かれ、尊は「相棒になっていく」様子が描かれていました。
とくに、薫は右京とはじめから信頼関係を築いている状態からドラマが始まりましたが、尊は、右京と信頼関係を築き、互いに打ち解けあうまで、相当の話数を割かれていました。
このあたりを比較研究してみるのも、おもしろいかもしれませんね。
もちろん、文章作品と映像作品とで創作や演出の方法論が異なることを踏まえたうえで、ですが。
すこしでも参考にしていただければ幸いです。
次元大介は連載で育ったのだと思います。
相棒も(プレにあたる土曜ワイド劇場の3作は別にして)13%くらいの視聴率で始まり(2002)15%を超えたのは第5シーズンあたり、映画化は2008くらいです。
ですからおっしゃるとおり
>「主人公の相棒である」と書いても、どうにも薄っぺらくなってしまいます。「相棒」というのは苦楽を共にするからこそ「相棒」なのであって、1からはじめる物語で「相棒なのだ」と書いても、読む側にとっては「ふーん、そう」としか感想を抱けないと思うんです。
と言えるでしょう。
ひとつの方法としては、二人の間にトラブルの種を入れて、作品の主題とは別に解決していくのも良いかもしれません。しっくり行かなくなった二人がまた結びつくような展開をいれると、過去の二人のエピソードも入れやすそうですし。