komarimacsさんの質問 2012年10月29日
皆さんはどうですか?
確かに産みの苦しみはありますし、きついと思う事はありますけど……書くこと自体が苦痛になったことはないですね。むしろストレス解消の方法として書くこともあるくらいです。
書くのが苦痛って人は産みの苦しみのことをいってるのかな? プロじゃない限り苦痛なら書くのをやめちゃえばいいのになぁって思いますw
まぁプロでもやめちゃう人いますけど、それは言わない約束でww
●答え●
私の場合は、続きが描けなくなった時だろうか・・・
無理にでも出さなければと、圧迫感があったかと・・・
今は、それを撥ね退ける方法として、ワザとコケル=評価が下がる=一寸気楽になれるかと・・・思っていたのですが。
何故か、上がった事が・・・さらなる圧迫に悩まされたり・・・
浮き沈みが変な具合になってしまったり・・・
これは受け付けないかと思ったモノが、バカウケしてしまった様だった・・・
誰が、どの様に見ているのかが、判らなかったり・・・
書けなくなった場合は、ハッキリとこの先が書けなくなりましたと、告げて見る事にしています。
それで楽になる事もあり、続きが書ける事も有り・・・
気楽に、愉しくが基準です。
主にストレス発散で書き、ポンポン投げ込んで見たりもしていますね。
小説とは、認めてもらえない様ですが・・・
物語りとしては、認めてもらえていたり・・・
お初にお目に掛かります。鷹嶋と申します。・・
「小説を書くのが苦痛だ」
多かれ少なかれ、インターネットが普及した現代、掲示板等でよく見掛ける事も稀に。私自身、小説を読み、自らの手で新しい物を生み出すと云う魅力に魅了されたものですから、komarimacs様同様、懐疑したもので御座います。
飽くまで私一個人の意見となりますが、頭脳にスクリーンを浮かべる事が不得手な方々に多々見られる様な気もしました。
例えば、文字だけの媒体を読んでいて、まるで映画の様な感覚になる者や、反対に文字が頭の中で渦巻く者。私自身は前者に該当しますので、後者の表現が的を射抜いていないかも知れません。唯、世の中にはこの二つが存在する。
頭脳にスクリーンが有ると無いとでは、大なり小なりの違いが有るのでしょう。
勿論、その他の要因も大いに有ると思いますが――まぁ、書くのが苦痛と仰るのならば止めてしまえば良いのに、と私は思いますがね。そう促しても、やはり書き続けるのですよ、不思議とね。
偉そうに書き連ねて参りましたが、私自身にも苦痛は存在します。例えば、試行錯誤の上、漸く完結した長編小説。息抜きを兼ねて書籍を漁っていると、酷似した書籍を発見……。これが数回続くと頭を抱え込んだものです。まるでインスピレーションが浮かばない。
今では、そんな苦痛も小説を書き綴る、数ある中の楽しみで御座います。
> 飽くまで私一個人の意見となりますが、頭脳にスクリーンを浮かべる事が不得手な方々に多々見られる様な気もしました。
あ、俺はこれだなと思いました(汗)。
そうなんですよ、やっぱり根本問題『一文も書けない』のはこの『スクリーン』が出来てないという。
自分の場合は、読む場合も書く場合も、やろうと思えば、あやふやにぼやけたものが浮かぶだけで……。それを元に必死こいて書くんですが、難しいですよね。疲れますし。
ただ読む場合はともかく、書く場合は自分が状況や現場を設定しなくてはいけないから、難度は高いですね。
例えば執務室って設定したら、まず執務室というイメージに対する知識や映像が出てくる。それは小説の文中に出てきた描写だったり、映画やドラマ、アニメなどの映像作品だったり。
読む場合は受け手に回っていれば良いけど、書く場合は送り手にならなくてはいけない。
これは至極当然のことだと思うんだけど、未熟者の自分としては良く実感させられます。
こういうスクリーン理論?を元に考えると、小説のみならず、具体的なイメージを掴むには映像作品が不可欠なのかな? 一番良いのは自分の目で見ることですが、それも難しいことが多いですしね。
そう考えると、視覚的情報は密度の濃い描写の一助になりますよね。やっぱし。
あるプロの人は一々書くシーンの場所を設計図みたいに起こす(大雑把ですが)と聞きます。
そうした方が描写も明確になるようで。
なんというか視覚イメージの重要さ、みたいなものも感じたりしますね。
要は、小説だけじゃなく、映像メディアなんかにも良く目を通すと、描写に幅が出来たりするのかなあーと。
小説で得たもの共に想像力の補助をしてくれたりするんじゃないでしょうか。
昔、全ては小説の肥やしになる、と言ってくれた人がいましたが、今は素直に頷けます。
では横槍失礼しましたー。
私は仕事行って終われば学校行って、だったので実際の生活で疲れてて、描く気力がどんどん減っていってやめたクチです。
描いてる時は頭に描いたイメージを上手く描けずに、あーでもないこーでもないと、己の下手さ加減にうんざりしてました。
小説だとここの文面、いい熟語ないし語彙ないかいねぇ、と悩む部分でしょうか。
出来上がったモノはストーリーは陳腐だわ、絵は下手だわで悶絶してました、(酷評もいただきました………)
下書き段階で投げたものも数知れず………。
でも妄想はやめられず………。
悩みすぎるとだんだんつらくなりますよね、加えて、プロでも人誌でもサイト運営でも〆切がついてくるとなおさら。そうなってくるとパニックになって、掲示板に書き込んで、後で後悔したり、返信もらって元気になったり………。
書く事がつらい人は何かしらに追われている人、という気はします。
産みの苦しみで悩むのも、追われて苦しむのも、昔からある作家の職業病みたいなものですから、ここはあたたかく見守りましょう。まあ、でも『いやならやめてもいいんじゃよ』というのも大事ですね、そこで何かに気がつく事もありますし。
こんにちは。
外出先で洋式トイレに入ったらまずトイレットペーパーで便座を乾拭きする特産ロデオです←神経質
小説を書くのが苦痛、ですか……
私の場合は苦痛というより理想とのギャップから来る苦悩に近いですかね。
性格にも依りますが、より面白くより洗練された作品を産み出そうと思えば思う程悩み試行錯誤するものです。
でもそのトンネルを抜けた時の達成感はまた格別ですよね。登山家が苦難の末頂上に至るのと似た感覚でしょうか。
悩みや痛みが下地にあるからこそ高みに昇れる。そういうものだと思います。
逆に言うと苦痛だから止めるというスタンスでは、決して上達しないのではないでしょうか。
これは何も物書きに限らず世の中の物事全てに通じます。
もし上達に苦痛を伴わないのなら、それは現在地がお話にならないくらい低い位置にあるか、もしくはその道の天賦の才を生まれ持っていたかのどちらかでしょう。
登山家が皆プロですか?
いえいえサラリーマンしながら趣味でヒマラヤ山脈制覇しようと奮闘する方もいらっしゃいます。
それを被虐趣味だと笑えますか?
少なくとも私には笑えません。
痛みを伴っても上を目指す。そういう気概は人間にとってとても大事なように思えますが……如何でしょう?
あ、勿論リタイアという選択肢もあるにはありますよ。ただしそれはしばしば“逃げ”や“諦め”を含意するものですが。
ほほう、皆さんいろんな事で苦しんでいるのですな。
特に〆切の苦しみは盲点でしたー。私は気が向いたときにというかアイデアが浮かんだ時に書くことにしているので、〆切とか考えたことなかったです。そりゃあプロは辛いよなぁ……
そして頭の中にスクリーン! これ、まさにやってますw どうしても文が浮かばない時は頭の中で映像化してから書くようにしています。アニメ好きの特殊能力ですね。
そしてやはり皆さん「辛かったらやめてもいい」スタンスなんですね! うん、安心しました。
描くのが楽しくて幸せだから苦しいんでねぇの?
描きたくて上手くいかなくて、やりたいけどできなくて、いとしいのに憎いみたいな。
体力いることだけにそれはそういうもんだよ。
どんなスポーツも走り込みや筋トレや基礎練習をこれでもかとやらないとプロになるはおろか思い通りのプレーをしたり試合に勝つこともできません。
競技や試合は好きだけど過酷な練習をしている最中はしんどくてやだなぁ、っていうのの同じことだと思います。
産みの苦しみもそうだし、なかなか整合性のあるストーリーが考えられないとか、スランプで書けないのに締切が迫っているとか、文章に納得がいかないとか、理想の作品に近づかないとか、もろもろ含めての辛さだと思います。
辛いならやめればいいのに、っていうのは的外れというか。。
前向きに取り組んでいるからこその苦痛や不満だと思います。
こんばんは路野トホホと申します。一度だけ書くのが苦痛になり執筆を止めたことがあります^^;
学生時代、ふとしたきっかけから小説を書き始め、当初はもう書くのが楽しくて楽しくて仕方がなかったです。こんな楽しいことが人生に存在するのか。小説を書かない人は人生の半分は損をしているとさえ思ったほどです(言い過ぎましたすみません)
単純にただ書くということが楽しかったですし脳内でいろいろと構想を練ったりするのも楽しかった。バイト・勉強をしていても小説のことが脳内に浮かんできて四六時中小説のことばかり考えてました。そんな日々が二年以上続きました。
次第に小説を書く技術的なものは上達してきました。ただそのかわり、自分の書く小説の内容がほとんど似たり寄ったりになってきて作品に面白みがなくなりました。自分のなかで限界を感じた瞬間です。
今では、小説を書くという行為は、作者の一部を切り抜いて肉付けをする作業だと思っています。人生経験が豊富で知識もあり話も面白い人の作品は単純に面白いし、独特な感性を持っている人の作品はより深く尖っていると考えます。
自分のなかで切り抜く部分がなくなった瞬間、書くことが苦痛になり私は書くことを止めました。ちょうど社会人になり生活に大きな変化が訪れた時期でしたので自分にとってもよい決断だったと思います。
しかし、社会に出て仕事や人間関係に悩み、様々な経験をし人間的にも多少なりとも成長ができたとき、またふとした拍子に小説を書きたくなってきたのです。今の自分なら学生時代とはまた違った作品が書けるはずだそれを試したい、と。
魔女の宅急便に絵描きのお姉さんが出てきますよね。その人は「描いて描いて描いてそれでも描けなくなったら、そのときは描くのを止める。そしたらまた描きたくなる」というようなことを言っていたと思います。
何を目標にしているのかにもよるとは思いますが、私的には、書くのが苦痛に感じたらいったん書くのを止めればよい、と思います。本当に好きならまた書きたくなってくるはずです。
部活と、一緒だと思いますよ。
苦痛になるのは、出来ないけどやろうとするからで、どうしてそんなことするのかは、それでも「やりたいから」だと思うんです。
特に運動部と似ている気がします。
苦痛だったらやめろとか言ったら、それなら野球部ラグビー部サッカー部陸上部水泳部etcetc…の部員は、(特に実力と体力のまだついてない新入部員なんかは)もれなくやめなきゃならないよな~、というか、そんな気がします。
書くのが苦痛だと訴えるのは、ホントにただ苦痛だと言いたいんじゃなくて、誰かに「何の評価もされないけど、俺はこれをやってていいのかな」という気持ちを、否定してほしいんだと思うんです。
私は陸上部で短距離をやってたのですが、三年間どれだけ(実際の意味で)血を吐いてがんばっても、県大会以上にいけるのは10秒台で(コンスタントに)走れるやつだけで、じゃあそれ以外の、その他大勢の短距離走者には価値がないのかといえば、そんなことは決して無いと思うわけで。
私は11秒3とかのへぼでしたけど、多くのやつは、苦痛だ何だと言ったって、10秒台なんて無理だとか思ってたって、ただ「やりたい」から、部活を「やめられずに」三年間走り続けちまうわけで…。
だからなんというか、書くことが「苦痛」であるとしても、「苦痛になってさえ書こうとしていること」がもう、意味のあることだと思うんです。
書くことが苦痛でない人は幸せです。
でもそんな人ばかりじゃなくて、妥協も出来ず、自分の実力のなさと対決し続けなくてはならない人だっているはずで。
そしてそういう人こそ、より励まされるべきなのじゃないのかと、思ったりする次第なのであります。
今の勝者だけが(評価される人だけが)全てじゃなくて、「苦痛を感じている」弱者は、やがて来たる可能性の側にいる証であり、その衝動において(それがたとえどんな幽かな思いだったとしても)、否定されるべきでは(たとえ無視されるとしても)ないのではないか? というか。
人の心の側にあるそういう大切な動機や衝動を無視して、小説は生まれないと思いますし。
私はあれですね、机でじっと座っていると、ウズウズしちゃうサガなので常時キッツイです。
歌ったり、鏡でボディビルダーの真似事してもなかなか解消されないっす。
でも、そういう小規模な苦痛ですぐ投げ出す故か、今のところ大規模な執筆性ストレス症候群を患ったことはありませんね~。
苦痛って人はマジもんの苦痛なんだと思うなぁ。
止めたいけど止めたら今までのが無駄になるしどうしよう、そう考えている内に時間だけ過ぎて行く~みたいな。止めちゃえばいいのにっていうか止めた方がいいんじゃないしょうかね。超回復的な意味で。オーバーワークだっけ。
アレですね、アレ。ウサギとカメのウサギポジだと大体疲れるんじゃないかなぁって思いますよ。アレはウサギとカメの能力差だから成立してるんであって、ヒトとヒトじゃあお察しだよね。
調子が悪いと、疑り深くなっていけませんね。
どうにも「自分はアイデアがどんどん湧いてくるし、書くのが苦痛になったことなんてないぜ! 苦しく感じるのなら書かなければいいじゃんwww」みたいなノリに聞こえてきました。
邪推が過ぎるようで失礼しますが、もし大人であるならば「苦痛になったら辞めればいい」なんて恥知らずな考えはやめた方がよろしいと思いますよ。
ついでに言えば、作品を書くこと自体が苦しみになるっていうのは、よほどその世界の深い部分まで足を踏み入れた人間でなければないと思います。
我々創作に携わる人間が創作で苦しむのは、例えば「何かを書きたいけど書けない」「書きたいものがあるのに、何から書けばいいのか、どう書けばいいのか分からない」「良い作品を書きたいけど、これがほんとうに良い作品になるのか、他人からそう評価されるのか不安だ」というように、「書きたいけど」あるいは「書きたいのに」それができない、力がない、自信がないから苦しむのだと思います。
それが純粋に息抜き目的の趣味ならば辞めたいときに辞めればいいでしょうが、こういうサイトに来るからには少なからず本気で取り組んでいる人だっているはずです。そういう人たちに対して「辛いなら辞めればいいじゃんww」という態度をとるのは、さすがに礼を失していると思います。
より良いものを書きたい、創り上げたいという強い思いがあるからこそ苦しんでいるわけで、例え書くこと自体が苦痛になったとしても、書きたくないわけではありません。書きあげたいから苦しんでいるわけです。そして、その苦しみを乗り越えようとする強い意志を持てるかどうかが、趣味でやっている人と(巧拙に関係なく)少なからず本気でやっている人との差だと思います。
それは創作の世界に限ったことではありません。仕事でもそう、研究やスポーツの世界でも同じです。
結果を出せない苦しみ、上達しない焦り、自分は大成する器ではないのかと考えてしまう絶望。本気になれば本気になるほどそういった壁にぶつかってしまいます。
つまり、壁にぶつかるのは本気に取り組んでる証拠であるということです。
口を酸っぱくして言いますが、「苦痛なら辞めればいい」なんて態度はそういう人たちに対して失礼極まりないです。
いえ、そもそも例え趣味であったとしても、我々が筆を執るのは誰かに強制されているからではなく、自分の意思で良いものを創り上げたいと思っているから筆を執ってるだけです。
そこに本気かそうでないかの温度差はあっても、「苦しいなら辞めればいい」なんてわざわざ口に出すようなことではないでしょう。
どうも、サイラスです。
私の場合は、自分の内面のしょうもなさや、自分の暗黒面や暴力性が出てくるところです。
最近、作品は書かなくなったのですが、文章等を書いていると、自分の暴力性や暗黒面が文章に表れたりします。それは、作品のキャラの性格やセリフなんか出てくると、キャラを汚したのと同時に、自分の矮小さを思い知ることがあり、そういうのと向き合うのが嫌で、作品を書くことから逃げています。
ただ、最近は、それと向き合っていきたいと考えています。理由は、そこから逃げたら、解決も何もないのと同時、無責任に常識や物事を語る人間になってしまうこと。それが、自分の大嫌いな大人の形でもあったと、知るようになったからです。
何かを表現する時、意外とその人の本性って、出るものです。それと向き合うのが嫌になって、筆が止まる可能性があると考えています。
では。