村逸さんからの質問 2011年10月20日
最近、友人から恥知らずと言われました、村逸です。
それはさておき質問させていただきます。
題名のとおりなので説明する間でもないような気がしますが、みなさまは小説を書くこと、作家を目指すことに羞恥を覚えることはありますか?
こう書くと、僕が小説を書くことを恥ずかしいと思ったことがないように見えるかもしれませんが、この間まではありました。しかし、昨日『どうして小説を書くことが恥ずかしいんだ。作家を目指すことのなにが恥ずかしいんだ』と冷静に考えたところ、『恥じることはなにもないじゃん』という結論に辿り着いてしまいまったのです。
だったら今までの羞恥心はなんだったんだ、と。今度は逆にそっちが疑問になってしまい、みなさまに意見を求めた次第です。
長々と書きましたが、聞きたいことは
・小説を書くこと、あるいは作家を目指すことを恥ずかしいと感じたことはあるか、またどんなときに感じたか。
・そもそもこれが一般的に恥じる行為なのか。
とりあえずこの二つです。その他思ったことなどありましたら、なんでも構いません。ご意見お願いします。
●答え●
べつに小説を書くことも作家を目指すことも恥ずかしくはないし、恥ずかしいと思ったことはないです。
でも恥ずかしがりながら小説を書く女の子とかいたら可愛いと思う。
※ただし二次元に限る。
「俺は作家王になる!」
みたいなことを公言するのが恥ずかしいのです。
傍から見ていて痛々しいのです。
「俺、コーヒーはブラックしか飲まないから」
とか言っちゃう中学生みたいな感じなのです。
僕は中学校時代からちまちまと書いていたのですが、
書いた作品を友人に見せてケラケラ笑い合っていたりしたので、抵抗を感じたことはあまりないです。
ただあまり関心のなさそうな人に「暇な時何やってるの?」とか聞かれると「ゲームしてる」とか嘘をついてしまいます。それが引け目と言えば引け目なのかもしれません。
まあ、ある程度は仕方がないものだと受け取りつつ、やっていくしかないかなーと思います。
周囲の抵抗って何をしててもありますしね。
5日にアップル社CEOのスティーブ・ジョブスが亡くなりましたが、
彼のスタンフォード大学での伝説のスピーチにこうあります。
Your time is limited, so don't waste it living someone else's life.
時間は限られている。誰かの時間を生きている暇などない。
他人の視線は気にしないように。
やろうがやらまいがごちゃごちゃ言われるのでしたら、 自分の心の向く方へ進んで見るのも悪くはないかと思いますよ。
私は、有りましたね、書いた物が酷評された時に。
小説とは言えないとまで、こちらとしても、それは自覚した上で、技術が伴っていないが、それでも書きたいから、と注意書きした上で書いたのですが・・・、駄目みたいでした。
ですが、それでも書きたいし、これからも続けて行きたいので、参考にはしますが、そこまで言うか?とも思いましたね。
ですが、その友人が言う事も、いい辛い事を言ってこれるだけ、心配してくれているのでは?
私は、楽しんで書いています、書きたいから書いています、作家とまでは行けないだろうが、書く事は恥ずかしい事ですか?
書く事を練習しては、いけないものですか?
自分の事とゴッチャに成っていますね、それでも、恥じる事は無いと思います。
どんな物が出来上がるかは、その人次第。
それでも善いのなら、恥じる事は無いのでは?
でも、悪いのは、そうする事にのみ、のめり込み過ぎてしまう事ではないかとも思います。
何事も程々に、頑張ってみては?
長々と書いてしまいましたが、これが私の意見です。
こんにちは、あざらしと申します。
書く前からとてつもなく長くなる予感がするテーマなのですが、割愛できるところは割愛し、可能な限り短くなるようにします。
簡潔に書くなら、映画『ミリオンダラー・ベイビー』 をお勧めします。答えのひとつがあります。
人によって猛烈な反発を買う内容ですが、多くの方にとって答えのひとつになり得ると思います。
夢を追うというのは素晴らしいことです。
恥ずかしさを捨てて頑張って下さい。
以下は、割愛しつつも長文バージョンです。
まず、最初に。
疑問として明らかにするならば、村逸さんの中で、客観的なことと主観的なことを区別されるべきかと思います。
>・小説を書くこと、あるいは作家を目指すことを恥ずかしいと感じたことはあるか、またどんなときに感じたか。
>・そもそもこれが一般的に恥じる行為なのか。
これ、恥ずかしいの意味、発端が違いますよね。
(間接的には同じですし、客観・主観が混じった状態ですが)
前者は主観的問題。
後者は客観的な問題。
こういう具合に区別できるはずです。
まぁ、素っ裸になって恥ずかしくない状況、みたいな話です。
『遭難して無人島でひとりぼっち』これならば裸になっても恥ずかしくありませんよね。
他人の眼が存在して、恥ずかしいという感情が生まれるわけで、他人の眼が存在しなければ、そもそも恥ずかしいなんて思いません。
恥ずかしくないという状況は、『誰の眼にも触れず、誰にも知られない』ということです。
小説を発表されるならば、どこかで恥ずかしいを乗り越える必要があるのではないでしょうか。
タイトルも、
>小説を書くこと、作家を目指すことは恥ずかしいこと?
こちらもそうです。
主観的なことと、客観的なことが混じっています。
(客観も帰結として主観に結びつくのは当然ですが)
どちらも後者についても書くと長くなりすぎますので、簡潔に。
夢を追われるなら『知ったことか』で、良いんじゃないでしょうか。
こっちは価値観の違いですし、他人の思考。
表層化するとも限りませんし解決不可能です。
まず、『小説家を目指すなんて恥ずかしいことだ』、として見る人の思考にも色々とあります。
『追う夢があって羨ましい』という嫉妬を発端とする、防衛機制かも知れませんよね。
特にバカにしたり、怒ったり、そういう負の感情の動きがあったとき、何の理由もなくそれは起こりません。
そもそも他人が真に理解できる代物でもありませんが、感情が強烈であればあるほど、どこかで理由づけられることがあります。
そういう類からは、村逸さんが夢を叶えることが、結果として解決になるはずです。
では主観的なこととして。
順序立てます。
まず、『小説を書くこと』
私は読者で執筆もしませんが、生業がもの創り、商業分野ですが思考を印刷物として形にすることですので、感覚としていくらか理解できます。
ハッキリ言って、恥ずかしいことです。
意味が変わってしまいますので、言葉の選択を変えます。
ハッキリ言って、本来、羞恥心を感じることです。
同じ作家さんの小説を何作か読むと、程度の差こそあれ、その人の思考が透けて見えます。
ストーリーや登場人物の反応、テーマや解決法。いくらだって思考が表に出てくる要因があります。
思考を形にするんですから、完全に客観視したものを形にするなんてどだい無理で、何らかの人格が表層に出てきます。
究極的には、それが『良いところ』『個性』に繋がるのでしょうし、それで良いと思うんです。
自分の思考を表現する分野は、恥ずかしくて当たり前です。
他人に思考をさらけ出すのですから、羞恥心を全く感じなければ露出狂の類です。
ただ、慣れると何も感じなくなります(笑)
エスカレートしていく露出狂、みたいな話ですが、人間慣れが出てきます。
露出狂の完成ですが、人に迷惑がかかるわけじゃなし、それで良いのじゃないでしょうか。
では、『作家を目指すことを恥ずかしいと感じる』についてですが。
何故恥ずかしいか、恥ずかしいと感じたのか、です。
世間的に、『小説家です』と名乗られたらどう思うでしょう。
世間的に小説家は尊敬される職業だと言ってよいはずです。
本の売り上げは、結果として付随するでしょうが、作家であること事態が一般的に尊敬に値するかと思います。
例えば『会社員です』と名乗られて、尊敬できるでしょうか?
これで尊敬されるには、絶対条件が必要です。
「年商○○○○億円の会社」「役職」「年収」「勤続年数」
これらがひとつも無ければ、『どこにでもいる、ただの人』です。
では、世間的に尊敬される職業であり、同じ目指しているでも『医者を目指している』ならどうでしょう。
普通は賞賛に値します。
「医大生」「中の上以上の学力」「家が金持ちかも」
そういったバックボーンが揃っているのが、ひとつ理由かと思います。
小説家を目指しているのが恥ずかしいのではなく、夢を追っているというのが恥ずかしいのではないでしょうか?
小説家には、医大生のようにバックボーンもありません。
プロ野球選手を目指している、と高校生が言ったら、普通に考えて『野球が上手い』というバックボーンがあるはずです。
(野球をやったことがないけど、プロを目指している、と言い張る漫画もあったのを思い出しました。当然ギャグ漫画です。……バックボーンがないが目指しているというのは、ギャグとして成立しちゃうんですよね。厳しいなぁ、鋼の心がいりますね。身近に応援して下さる方がいらっしゃったら運が良いと思います。ご飯でもおごってあげて下さいw)
医者にしたって、成績が非常に悪い中学生が『医者になりたい』と言ったら反応が違います。
賞賛・尊敬ではなく生徒指導室で叱咤激励されることでしょう。
厳しいかな、人の眼はとかくバックボーンを必要とします。
ですが、小説家というのは、バックボーンがありません。
目指してます、というのは宙ぶらりんです。
しかも誰でも言えるんですよね。
ミュージシャンだとかアーティストというのも、近いものがあるかと思います。
要は、『宙ぶらりんの状態は恥ずかしい』というのは、真っ当な神経の持ち主なら『恥ずかしい』と思って当然、普通のことです。(感じないとダメ、といってるのではありません)
冒頭に戻ります。
夢を追うのは素晴らしいことです。
小説家を目指されるならば、どこかで『恥ずかしい』を乗り越える必要があると思います。
恥ずかしいを乗り越え、そして解決できる状況は、ひとつだけです。
村逸さんにとっては、小説家になること、かと思います。
夢を仕事にすると厳しいことが待ってます。
ですが、楽しく喜びであることは間違いありません。
生き甲斐の問題です。
会社員でも、それは持てるというのならば、それは会社員を目すべき人です。そういう人が夢を仕事にすると高確率で不幸が待ってます。わざわざ辛い道を選ぶことはないです。
夢を形にすること、好きなことを続けることが生き甲斐だと感じるならば、夢を叶える障害になる『恥ずかしさ』など捨てて努力すべきです。
ラスト個人的意見全開で断定しましたが、率直な意見です。
頑張って下さい!
初めまして、犬飼いと申します。
小説を書く事はすなわち文章を書くことです。書くだけならば世間に公表せず己の棚の中にしまっておけるので、これに関して羞恥は無い筈。
ですが、自分の書いた小説は自分の思考の一部です。自分の性格を隠蔽しようと模索しながら執筆しても、文章の節々からはどうしても透けて見えてしまう。それを他人に見せて恥ずかしいと感じるのは致し方ないでしょう。
『作家は自らの尻穴を見せるようなもの』。
他人の眼が周囲にあり、思考に始まる、日頃は外界から垣間見る事の出来ない自分の内部を見られる。 かく言う私も初めて小説を書き上げた時、とある投稿サイトのフォームで送信ボタンを何時間も押せなかった経験があります。それまでは、他人に自作品を見せる事が恥ずかしいとは微塵も思っておらず、かなり困惑したものです。
その恥ずかしさを軽減・抹消する最善の方法は、他人に認められて自信を付ける事に尽きますね。
私もその境地を目指しています。
> ・そもそもこれが一般的に恥じる行為なのか。
作家を目指す事を、世間一般的に恥ずべき行為だと心底思っている人は、そもそも小説を購読しません。
覚せい剤使用を恥ずべきと思っている人が、わざわざ売人を探して麻薬を買う筈がありませんよね。
小説を読む人が世間で多いという事は、それだけ作家という職業は認められているという事です。
読者側からすれば、ハードルの高い職業として映るのかも知れませんけれども。
参考になれば幸いです。執筆頑張ってください!
小説を書くこと。作家であること。
べつにそれ自体は恥ずべき行為ではありません。
ただどうして羞恥心が生まれたのか。これはあなたご自身の経験に基づくものなのか、それとも人間だからなのか。
これについては人間だからだと仮定して話を進めてみます。
まず小説家を目指すことは、他の職業よりも金銭面で苦労することが予想されます。
金銭面で苦労するということは、衣食住、つまり生活面で苦労すると換言することができます。
生活力の低下は、生命維持の観点から見ても、あまり好ましい結果にはなりません。
我々の祖先がいたとして、彼らはジャングルを駆けずり回りながら獲物を狩って生命を維持していました。
そして獲物を狩れない祖先は淘汰され、強者は群れからメスを選んで祖先を残していきました。
今の人間の思考回路、肉体の構造は、昔の祖先たちの生活から影響を受けています。当たり前ですね。
人間の集中力が続かないのも、祖先が獲物を狩る際、獲物だけに集中していると無防備になるからだとか。
もしあなたの脳に小説家になることの厳しさ、衣食住の不安というキーワードがインプットされてたなら。それが動 物としての危機感となり、恥という感情となってあらわれたのかもしれません。
恥という感情は、自他の弱点に対して湧くことが多いから。
「小説書くの? すごいね!」
と言われることもあれば、
「小説? へぇ……(陰気なやつだなぁ)」
と思われることもあるでしょう。
小説を書くこと自体を恥じるときは、後者のリアクションをされたときですね。
人それぞれ価値観は違うから、で済む話だったら気にしないのですが、自分でも「ひとりでがりがり書いてるぐらいなら、もっと人と喋れよ……」て中学時代を振り返って思いますから。
創作に理解のある人や、気心の知れた友人以外には、今でも胸を張って「小説を書くのが好きです!」とはなかなか言えません。
で、次に作家を目指すことを恥じるか否かですが、
1・強い情熱を抱いている。
2・一定以上のクオリティの作品が書けている。
3・素行や生活も人並に送れている。
この三つを満たしているなら、恥じる必要は何もないと思います。
何か夢や目標があって、それに打ち込んでいる人はかっこいいです。
そしてその分野で相応の人気や実力がある人はかっこいいです。
さらに夢を追いかけつつも自分の立場や役割をわきまえて行動できる人はかっこいいです。
中には、そこそこ実力があるけど自己中心的で偏屈で思いやりに欠ける人や、
夢や目標ははっきりしてるけど努力がおろそかだったり中途半端だったりする人、
夢に向けての努力は一応してるんだけど、遅刻や怠慢、堕落などで本業(仕事や学業、部活など)が疎かになる人なんかも、この広い世界ですから、いると思います。
でもやっぱりそんな状態では「小説書いてます」「小説家志望です」と胸を張って名乗るのは恥ずかしいですよね。
こういうのは何事にも当てはまることだと思います。
自分をしっかり冷静に見つめ、他人に優しく自分に厳しい“きちんとした人”は、執筆に限らずスポーツ、音楽、学問、ビジネスマンetc...何をやっていてもかっこいいものですし、理解も得られます。
少々自作を厳しく批評されたって建設的に進歩していけると思います。
けれども自分の日常生活をきっちりこなして、かつ夢に情熱と努力を支払える人はそんなに多くないと思います。
かくいう僕も実にナマケモノです。日常生活も趣味も部活もなかなか一心不乱に打ち込めません。
だから今のままでは自分が恥ずかしくて、○○になりたいなどと親や友達に言うのはとても無理です。
よほどの決意と覚悟を固めて、生活一新、一念発起すれば、
自分にプレッシャーをかける意味でも言えるようになるかもしれませんね。
はーい、天下無敵の最弱候補、狂人くんだよ!
ラノベを書いてて恥ずかしい思ったことはありませんし、ラノベ作家を目指すことに羞恥を抱いたことはありません。疑念や疑問を抱くこともなかったかもしれませんね。
ただこれは私的な意見ですが、ラノベないし小説というのは、マイナスからの産物だと思うのです。
現実に満足出来ず、現状に満足いかず、欠落と欠陥を抱え、物足りなさ、欠けているものを補おうとした果てに生まれる。そんな産物だと思うのです。ま、私だけかもしれませんけど。
自分は恥知らずですので、それを悪いとは思えません。
欠けていて鬱屈して屈折していても、そこから生み出せる自分のラノベを愛しています。
だけど端から見たらそんな欠陥を抱えた私は、とても醜いし、逃げているだけに過ぎない。かもしれませんね。
そういった意味では、ラノベを書く私という人間は、恥ずべき人間なのかもしれません。
もう一度言いますが、私はラノベを書いていることを、ラノベ作家を目指すことを恥ずかしいとは思っていませんよ! 僕は天才肌ですが頭の悪い子なのです。
これは場合によりけり、ではないかと私は思います。
既に成人しておりながら、一年も二年も無職の人が、
「俺作家目指してるから!」
って感じで働きもせずにだらだらと小説を書いているのなら、
「いつまで夢見てんの?恥ずかしくない?」
と言われるのは仕方ないかと思います。
ですが特にそれが当て嵌まらないというのであれば、別段何も恥じる事はないかと。
自分の時間を割いてやっていることですしね。
趣味の延長線なんだし、俺の勝手だろ?って態度でいればいいと思います。
逆に、なんで小説を書く事や作家を目指す事が恥ずかしい事なのか、その友人に聞いてみたいですね……。
ちなみに私は一年ほどニートをしながら「俺作家目指してるからww」ってやってたので、あの頃の事を思い返すと真面目に恥ずかしくなります。
でも今(ニートやめて働いてます)は趣味の延長線でやってるので、友達に見せて酷評をもらったとしても恥ずかしいなんて事はありません。
筒井康隆ですけどな、短編名作「乗り越し駅の刑罰」というのがあるんですよ。
それはそれは、不愉快から怒りまで、あらゆる負の感情を生々しく引きずり出されるような名作でしてな。
不快で読むのを止めようとしても、どうしても止められない。そんな文章が綴られておるのです。
同作発表後、物凄い反響だったのです。感動した。悪夢を毎晩見る。電車で眠れない。キリがありませんのです。
なんでそんな名作が書けたか。それは筒井康隆が小説を書いていて、父親にねちねちから激烈まで、恥を感じるどころじゃない、恥辱感をナイフで抉るようなことをされまして。
それを自分で生々しく思い出しながら執筆したそうですぞ。
ポジもネガも、何が小説を凄くするか。世の中先が見えません。
日本社会の常識に照らし合わせて一般的に考えると、ある程度の年齢を過ぎてなお実力も実績もない人が目指すのは、間違いなく恥ずかしいことですね。
というか失笑物でしょう。
良くも悪くも、人は大人になります。
大人になるということは、安定した将来を手に入れる代わりに、不安定な将来を切り捨てるということでもあります。
そして何が安定するか、というのは人それぞれ。ずば抜けた長所を持つ人ならば、それを生かした職業というのは安定していると言えるでしょう。
が、長所でもなんでもないことを目標にしたり、長所であっても安定しないことを目標にするのは、現実を見ていないだけなんですね。
これを大人になってからも理解していなかったり、理解していても現実から目を逸らしたりしているのは、確実に恥ずかしいです。
また、クリエイターを目指すというのは現実からの逃げ道でもあります。
本気で目指しているのなら恥じることはないですが、逃げとして目指しているのなら恥ずかしい。
そしてその羞恥を感じなくなったならば、本気になったからなのか、麻痺しただけなのか、更なる精神的逃避を重ねただけなのか、それが問題。
本気になったというのなら構いません。明確な未来像と目標を持ち、死ぬほど努力して目指せばいい。
自分を見つめ直してみて未来像も目標も曖昧である、というのなら黄信号。本当に本気なのかどうか、よっく考えてみましょう。
さらに、見つめ直すまでもなく曖昧だ、というのなら赤信号。とっとと諦めて他の道を目指した方がいいです。
こんにちは、底辺 従助です。
あえて言おう、別に恥ずかしくないと。
他人がどう思おうが、いくら落ちぶれて軽蔑されようが、自分の選んだものが自分の真実です。俺が世の中ひっくりかえしてやんよ、位の気概があれば十分でしょう。
無論生活の安定や家族への愛情は必要です。ですが、なら両方こなしてしまえばいいだけの話だと思います。
働く、書く、読む、食べる、寝る、起きるの連続をいくらでも好きなだけ繰り返せばいいのです。
失敗してどんなにくじけようが、いくら恥をかこうが、全部自分で責任をもってやればいいだけです。
どん底に陥ろうと、そこに希望がある限り、絶対に不幸は訪れません。
俺は小説が好きだ、本が大好きだ、という気持ちがあれば問題などないです。
義務をこなし立派な生活を送るのは素晴らしいことです。
しかし豊かな日本では、生活は切り詰めようと思えば切り詰められますし、贅沢をしなければどうにかこうにかやっていけます。金銭面で不自由しようが、家族への愛情があれば和やかにやっていけるはずです。
と顔真っ赤にして熱く語ったのはいいのですが、僕自身がそれを実践できてませんね。馬車馬のような厳しい生活に耐えきれるだけのタフネスを本当に獲得した時に、皆さんと再び創作について語り合いたいと思います。
このスレッドは耳に痛い部分が多く、本当に参考になりました。現実を直視した上で努力を積み重ねることが大事だ、と自分なりに解釈してうなずいています。
長文乱文失礼しました。
私は小説を書く事は恥であると思ってます。
おはようございますミトリです。
少なくともここに書いた掲示板の文章を一般人が見てどれだけの人が納得するでしょうか?
しょせん小説にしかり文章にしかりその時代にのみ呼応するのが殆ど、それを過ぎれば価値がない作品は歴史の塵になります。
それは受かったとしても、大賞をとったとしても変わらない事実。
ですが、それでも伝えたい、挑戦したい、共感して欲しいと考えるからこそ皆さん書き続けているんですよ。
つーか恥でいいじゃないか。
《聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥》
という言葉があるんだ。
恥かいても知らないよりはましって事だろ?
恥だろうが好きなら仕方ないんだよ。
仮に貴殿の異性が他の人からみたら変でも本人が好きならば関係ないだろ。
……まあ、そんくらいなもんなんですよ。
後は社会的な事は皆さんが語っているので略させて頂く。
なお恥と考えてるのは自分への戒めの為です。
恥をかいて当たり前、だから恥をかかないくらいの文章をかけるようになってやる、とね(笑
なおこれが一般的か否かと考えれば、いや考える時間すらいらないほど結果は明白でしょう。
しっかりと社会的に生きて未来を掴んで下さい。
駄文失礼しました。
執筆頑張ってください(かしこ
こんにちわ。星乃はると申します。
私も小説を書くことはもちろん、読むことも恥ずかしいと思ったりして困っています。
小さい頃から人に笑われるのが嫌いで、不快だから私も笑わないようにしなくちゃ、と思いつつ、笑うのは生理現象ですから、笑うのをやめられない自分が恥ずかしくなるとか、人間何が恥ずかしくなるかわからないものです。
この間、ちょっと心の中でとある作家さまとケンカをしまして。
(心の中で、です。作家さまとは出会ったことは無く、作品から私が勝手に作り上げたイメージです)
私「あんたよくも人のことヘラヘラ笑えるわね! あんたみたいな恥知らず、あたし大っ嫌いなのよ!」
(リアルの私はこんな演技派ではありませんが(笑)
小説というのは、キャラクターをいじめて楽しむものではないか。
一体この人たちはどうしてそんな人をおもちゃにするようなことを平然とできるのだろう。
読者として物語を楽しんでる自分を棚に上げてでも、納得いかない私は問い詰めます。
「私だって恥ずかしいわよ」
作家さまは静かに言いました。
「あなたが静かに生きたいなら、そうすればいいわ。あなたは死ぬまで、天使のようなきれいな心でいたいのかもしれないけど。そうやって美しいまま死ぬのは、たとえば交通事故なんかで、幸せを知らないまま死んでいく子どもと同じ。哀れでかわいそうで、だから人は涙を流すのね。あなたも、そんな自分を哀れんでいるんだわ」
汚い恥ずかしいことをいっぱいやって、人は幸せになるんだと、作家さまは私に言いました。
(念を押しておきますが、すべて私の妄想の中の会話です)
恥ずかしいことを堂々とやってる人たちほど、恥についてよく知ってる人はいないと思います。
恥ずかしくてやりたくないことは、やらなければいい。しかし、恥ずかしくてもやりたいことはあるし、やらなければならないことはあるのです。
恥ずかしくないの?なんて言う人は、そのことをすっかり忘れてしまっているのですね。
ちなみに上に書いた私の理屈は、私がキャラクターと現実の人間を同列に扱っているという恥ずかしい事実の告白でもあります。
たぶん私は、作品を楽しんでいるときの自分の心情を、誰かに見られてしまうのが怖いのでしょう。
電車の中で本に夢中になって、時々笑いをこらえられなくて口を押さえて必死に隠す。私はおもしろいものを笑わずに読むことはできない。
誰かが私が読んでいる本を取り上げて、カバーを剥ぎ取ってみんなに晒しだしたらどうなるだろう。
理性のない状態は、理性で戦って生きる人間にとって最も無防備で怖ろしい状態。
・・そんな風に、読むのが恥ずかしいことだから、私は書くことで、少しでもそのときの心情を美しく見せたいだけに過ぎません。
果たしてそれのどこが立派な仕事なのでしょう。
でもいくら恥ずかしくてもみっともなくても、読むのも書くのもやめませんよ。
だって好きなんですから。
好きというのは、恥ずかしいことに対する最後の免罪符なのかもしれない。
言いたいこと並べただけですが。
駄文失礼しました。☆ヽ(o__)oペコ