人の気持ちと空気が読めず、自己中心的な性格をこじらせて闇落ちした主人公に、暴力を用いたマインドコントロールで真人間に戻すという、問題のある描写を試みています。
僕は、大いに逡巡しているのです。果たして、障碍者の心の闇を主題に扱っていると標榜するこの作品の転換点が、【純粋な暴力を、犯罪以外の有益な用途に、魔法という虚構で無理やり転用する】というもので、善いのだろうか、と。
主人公のレイヤが抱える「人の気持ちがわからないが故の人間不信」や「感覚過敏やコミュニケーション能力の不備による、ねじ曲がった認知バイアスからくる傲慢な性格」は、常識から考えても、決して暴力でどうにかなるものではありません。
でも、僕が出した答えは、どんな形であれ【自分の体と心が、誰かに奪われる】、つまり【隷属される】という体験は、トラウマの発生と心身の傷さえ押さえれば、肥大したプライドを粉々にできるという結論でした。
主人公のレイヤは、自分を構成する感情や性格や要素を、他人に共有されることを怖がっています。心の中身が見えない他人に、自分の一部をコピーされることが耐えられないんですね。だから、思いやりや共感といった人間らしいコミュニケーションを恐れている。
現実では、他人に監禁凌辱暴行等々を加えれば、犯罪です。本人の心身に消えない傷を植え付けます。
では。もし仮に、暴力をふるうこと自体の問題性を、片っ端から取り除いていったら、そこには何が残るでしょうか?
誰かに殴られたけど、痛くない。痺れるほどの刺激と強い衝撃はあるけど、傷がつかない。
凄くびっくりするけど、罵る代わりに愚かな自分を強く諭してくれているこの人が優しいと思うから、悲しくない。でも、怖いから逆らえない。
言うことを無理やり聞かされている内に、どんどん自分の中の、くだらない言い訳とか、責任転嫁とか、人間不信とか、怠惰が、物理的にぶち壊されていく。
自分を形作っていた腐った性根だけを、辱められて壊される。最後の最後は、しがみついていた弱い自分が殺されて、空っぽな心だけが残る。
そこに、人間としての尊い感情とか、考え方とか、優しさとか思いやりが、植え付けられていく。
そうやって、マインドコントロールを『破壊と再生』という有益な手段に転用するという、強引な描写は許されますか?
僕は暴力を決して容認しません。ですが、それは暴力にとてつもない有害性があるから反対するのです。
『人に危害のない、安全な暴力』を描くことで、障碍者への差別が増してしまわないか心配です。皆さま、問題があると感じましたら、ヒントをいただけると幸いです。
皆様の回答をお待ちしてます。
>でも、僕が出した答えは、どんな形であれ【自分の体と心が、誰かに奪われる】、つまり【隷属される】という体験は、トラウマの発生と心身の傷さえ押さえれば、肥大したプライドを粉々にできるという結論でした。
これってまんまブラック企業の新人研修でしょ。あるいは自己啓発セミナーの洗脳手法。
宗教的回心で救われる魂もあるのか知らんけど、普通はアイデンティティを壊されることそれ自体がトラウマになりうるし、ちょっとどうかなと個人的には思う。
人間には生産性なんてなくても自由に生きていい権利があるし、むやみに社会の歯車生産工場にぶち込んだら良いってものじゃないよ。みんなで規格化された歯車になって最大効率の生産性をやっていこうとすると素朴な全体主義になるのだけれど、それは結局のところ、個としての人間をすり潰すことにしかならない。
っていうか真人間って何なんですかね。どういう状態のことを言うんだろう。憧れはあるけど、ライ麦畑から転落してまでなりたいものではないな。肥大したプライドを抱えたまま不自由に生きていくのと、生きやすくなったかわりに別人に魔改造されてしまうのと。まあ、どっちが良いかは人によって意見が分かれるところだろうと思う。
>主人公のレイヤは、自分を構成する感情や性格や要素を、他人に共有されることを怖がっています。心の中身が見えない他人に、自分の一部をコピーされることが耐えられないんですね。だから、思いやりや共感といった人間らしいコミュニケーションを恐れている。
素朴な疑問。それは"症状"なんですか? 個性ではなく?
また、かりにその性格傾向が"症状"と呼びうるものだったとして、本人の意に沿わない"治療"を強制的に受けさせることは人道的に正しいのでしょうか。治療を拒否して勝手に死んだりするのも当事者の自由であり権利なのでは。
まあ臨床の現場がそんな理想論だけじゃやっていけないのはわかるんですが、だとしても"治療されてしまうこと"が本人にとって良いことだったのかどうかは常に考えるべきかと思う。
>誰かに殴られたけど、痛くない。痺れるほどの刺激と強い衝撃はあるけど、傷がつかない。
>凄くびっくりするけど、罵る代わりに愚かな自分を強く諭してくれているこの人が優しいと思うから、悲しくない。でも、怖いから逆らえない。
『痺れるほどの刺激と強い衝撃』『怖いから逆らえない』って明らかに不快な環境だし、これも本質的に暴力と変わらないのでは? また、逆にそうした不快感まで取り除いたら"暴力"には何の強制力も残らないことを考えると、暴力から問題性を取り除くことで"問題性のない暴力"を抽出できるとする考え方には欠陥があるのでは? というか暴力とは"問題性"の一つの具体的な表現にほかならないのでは?
最後に、道徳的価値判断を離れて小説的にどうかという話をするなら、1.『心の闇』が主題ならそれがチートアイテムで都合よく解決されてしまう展開はぶっちゃけ興ざめだしありえない。2.主人公が痛めつけられたり不幸な目にあったりしながら学びを得て成長する展開は鉄板だが、その際に暴力の暴力っぽい側面を描かないということになると盛り上がりに欠ける。という2点からそうした展開には反対。まあこれらのデメリットを覆せるくらい面白く描けるという目算があるならそれでも良いとは思うけど。