小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A。執筆の悩み相談をしよう!

サタンさんの返信一覧。最新の投稿順5ページ目

元記事:視点人物がいないシーンを書くことの当否

こんにちは。
三人称小説で視点人物がいる場合はその人物の知覚、記憶、心情について描写すると思います。

【質問要旨】では、登場人物の内心について直接描写せず、客観的描写だけすることにすれば、視点人物のいないシーンを書いても低評価にはならないのでしょうか?

具体的には、主人公が敵陣で戦っている時に、味方の拠点が味方のリーダーの喉元まで敵が迫ってきて大ピンチというストーリーを描くためにそのようにしたいです。

また、他に良い方法があればご教示ください。知恵を貸していただけますと幸いです

上記の回答(視点人物がいないシーンを書くことの当否の返信)

投稿者 サタン : 1 投稿日時:

三人称視点の「三人称」とは、いろいろ説明を省いて結論を書けば「第三者の」という意味です。
「物語に直接介入しない第三者の視点から物語を語る」という手法が三人称視点というもの。
ここで「視点」というものを考えてみると、まあ読んで字のごとく「視線がそそがれる点」のことですが、「視線をそそぐ」ということは「見る人」と「見られる人」がいるわけで、「見る人」はすなわち語り部のことで、「見られる人」というのが俗に創作界隈で使われる「誰それに視点を合わせる」キャラを指す。
つまり、視点という言葉を使う以上は三人称であろうと常に「どこか」に視点は合わせている。
そうしなければ読者が何を見ていいのか混乱してしまうので、一人称は常に主人公ないし語り部が視点を持ってるので気にしなくてもいいけど、三人称では視点の扱いは非常にシビアなものになったりします。

「常に誰かに視点を合わせる」ではなく「常にどこかに視点を合わせる」と書いたのは、三人称の場合は視点はあくまで「見る対象」なのでスポットライトのようなものをイメージすりゃいいのかなと思いますが、キャラに限定されず場所とか事象とかでも問題ないためです。
例えば「とあるコンビニエンスストアの一日」というテーマなら、別に主役を設定せず一日の人間関係や店員じゃなく客にスポットを当てたりとか「そのコンビニ内」に視点を合わせて監視カメラを見てるようなミニ群像劇にしたりもできます。
この場合、まあ別に視点を変えてもいいけど、基本的にはコンビニ内に視点をあわせてあまりキャラを追ったりはしない。場所に視点を合わせてる例なので。
まあでも、小説は人間ドラマを作りやすいので人間ドラマを追う以上はキャラに視点を合わせることが一番多くて、私のコンビニの例は無理筋ではあると思うが。

で。
「常にどこかに合わせる」と書いたけど、どこにも合わせないフラットな、客観的な手法もあります。
それが神視点と呼ばれるものです。
「神」という何でも知ってる語り部視点なので、場所も時間も人物も自由に何でも見れます。
これは、正直あんまオススメできないです。
やるなら一時的に味方リーダーか敵強襲部隊に視点を合わせたほうがいいと思う。
たぶん、
>三人称小説で視点人物がいる場合はその人物の知覚、記憶、心情について描写すると思います。
この書き方からして、おそらくだけど三人称一視点で書いてて視点移動に悩んでるんだと思うけど、それなら視点をコロコロ変えたりしない限りは一時的に味方リーダーに視点移動しても問題ない。

他に良い方法は、
結局は視点主に「強襲部隊が拠点に迫ってる」って情報が伝わってりゃ、それは視点主の視点から状況を書けるから、「警戒中のはずのB棟の電気が消えてる」とか「α隊と連絡がつかなくなった」とか「拠点から爆発音が」とか、ようは「強襲部隊の行動を間接的に視点主が実況できる演出」を入れられれば、視点を変える必要はないね。
実況演出が無理そうなら、自分なら強襲部隊に視点合わせるかな。
主人公が敵陣で戦ってるってことは主人公も敵陣に突入する強襲部隊なわけで、同じようなポジションの敵と対比構造を作れるので一個のドラマになるかなと思ったため。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 視点人物がいないシーンを書くことの当否

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元記事:リアリティーについて

 また質問します。
 能力もののクルマ小説書いているのですが、リアリティーがないと言われました。
 それを出す方法はクルマを買ったり、乗る方がいいと言われました。
 他に方法はありませんか?

 ただし、キャプテン翼の高橋陽一先生はサッカー経験がないにも関わらず、サッカー漫画を書き上げたと聞いていますが

上記の回答(リアリティーについての返信)

投稿者 サタン : 2 投稿日時:

リアリティというのは、こと創作においては説得力という意味です。
その説得力を増すため実際にネタ元に触れることは良い経験になることは間違いないです。
でも、その論理で言うと「推理作家は殺人犯の心理を理解するため人を殺したほうがいい」となるし、「ファンタジーを書いてる人は実際に異世界に行った方がいい」という無茶な話になります。
なので、これはあくまで「説得力を増すために出来ることの一つである」と考えれば良いかなと思います。
サッカーをしたことなくても試合自体は実際の試合を参考にしてしまえばいいし、そのときの選手の心情は取材して直接聞くなりインタビューなんかを読むなりすればいいし、そもそも作家としては「サッカーを書いてる」わけじゃなく「サッカーを題材としたドラマ(物語)を書いてる」わけだから、書いてるものはあくまで「ドラマ」なんです。
つまり作者としては、サッカーというテーマにはドラマ・物語に影響しない程度の説得力を持たせればよくて、「実際にやらなきゃわからないようなこと」は書かなければよく、わかる範囲内で書けばいい。
そして、試合のシーンなどは実際に行われた試合なんかをトレースしながら選手を自分のキャラに当てはめて書けばいい。
こうしたリアリティ・説得力に関するお悩みは、ぶっちゃけ 全部自分で作ろうとしてしまう初心者 にありがちで、自分で作らないとパクリになるとかオリジナリティがとか思うかもしれないけど、そこが大きな間違いなので、「自分に出来る範囲で」「既にあるものを利用しましょう」というこの2点が、わりかし楽に壁を乗り越えられる手段じゃないかと思う。
で。
最初の回答に戻るけど、実際に体験すると「既にあるもの」の中に「自分の体験・知り合いの体験談」などが含まれて利用できるネタが大幅に増えるので、経験できるものなら経験したほうがいい。
でも、経験しなくとも前述したように「既にあるもの」の中で自分の体験って引き出しが無いだけだから、実際のレースを参考にしたり自称走り屋のSNSや動画配信なんかを参考にしたり、なんとかなるっちゃなんとかなる。
とはいえ経験するのとしないのでは発想できるポイントが変わってくるから作風も変わってきちゃうし、「経験してる人が思いつくような作品」を完成予想図にしてるなら、そりゃ経験しないと同じような説得力を持たせることは出来ない。
例えば車買ったこともない人が「こんな感じかな」で書いた車購入のエピソードを、車買ったことある人が読んだら、そりゃ違和感しかないし説得力もないでしょう。
それをどうしたら違和感をなくせるかって言ったら、まずそんなシーンは書かないってのが一番早い解決策。
繰り返すけど作者としてはドラマが大事なんであって車・走り屋の知識を伝える文章を書いてるわけではない。だから、ドラマに不要なら違和感が出るだけで説得力がなくなるシーンは書かない。ドラマに必要なんであれば経験する以外では必死に調べる・取材するしかない。
例えばファンタジー書いてて「戦争シーンにリアリティがないんです」ってなったら、そりゃ実際の戦争を参考にすりゃいいんだから戦史を紐解いて使えそうな戦場の記録を自キャラで再現させりゃいいし、囲碁とか将棋とかチェスとかボードゲームで「頭良い人同士の対戦を思いつかない」ってなったら、そりゃ過去名勝負の棋譜を調べて参考にすりゃいいだけ。
絶対に書かなきゃドラマが成立しないシーンなんであれば、そうやって調べたり取材したりするしかない。
書かなくても成立しそうなら、例えば車購入なら「これから買いに行くぞ」でシーンを区切って、次では購入後あるいは納車待ちのシーンで車購入についての流れはダイジェストで書いて軽くながしてしまえば、詳しい事は書かなくても話の流れは書ける。

まあ、走り屋としての喜びや悲しみはだいたい共通すると思うんで、そういう人の動画配信とかブログとかをチェックして「車を購入したときの喜び」とか参考にすりゃいいと思うよ。
キャプテン翼の作者も、やったことなくてもサッカーを一度も見たことないってわけじゃないでしょ? たぶん 観る に関しては人一倍だと思うよ。てか確か自分のチームで監督とかしてなかったっけ。
スレ主さんにいまリアリティに関して足らないのは、参考の量と、参考の仕方とかじゃないかな。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: リアリティーについて

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元記事:「合う」という表現の使い方

 こんにちは、お久しぶりです。いつぞやはじつにつまらない質問に答えていただき、ありがとうございました。今回もあまり変わらないのが心苦しいですが、よろしくお願いします。
 と言いますのも最近また分からなくなってしまったのは、「合う」という表現の使い方なのです。合格とか合致のように働きや形状に見合うという意味でなら迷うこともないのですが、「話合い」や「助け合い」の場合に限って「これは当て字の類ではないのか?」と考えてしまって筆が進まなくなるのです。
 こんなことに悩んでいるからいつまでたっても文章が上達しないのだと自分でも情けなくなりますが、どうかお知恵をお貸しください。

上記の回答(「合う」という表現の使い方の返信)

投稿者 サタン : 2 投稿日時:

そもそもスレ主さんが「合う」という漢字をどのように認識しているのかわからないかな。
辞書には

1 二つ以上のものが近寄って、一つになる。くっつく。「いくつもの川が—・って大きな流れとなる」
2 よく調和する。適合する。「配色がよく—・う」「和室に—・った装飾」
3 二つのものが一致する。くい違いがない。合致する。「息が—・う」「気が—・わない」「話が—・う」
4 ある基準と一致する。「寸法が—・わない」「答えが—・う」「道理に—・う」
5 それだけのことをするかいがある。引き合う。「—・わない商売」
6 動詞の連用形に付いて複合語をつくる。
㋐互いに…する。「助け—・う」「取り—・う」
㋑一緒になる。「落ち—・う」

とありますが、主な意味合いは1と3、つまり二つ以上のものが寄り合い一致することでしょう。
調和や適合は一つでは出来ず二つ以上必要だし、基準との一致も基準となるものとその対象の二つ以上が必要で、2・4・5はそれらが一致する・一つになることを指してる。
スレ主さんの疑問は6にある動詞にくっつく場合だけど、これも二つ以上の要素が必要で一致することが目標になる例文ではないかな。
助け合うことは二人以上が一つの事に力を注ぐわけだし、取り合うことは二人以上が一つのものを文字通り取り合うわけだし、落ち合うことも別々の場所にいる二人以上が一つの場所に待ち合わせることだし。
スレ主さんが挙げた 話し合い も複数の意見から答えを見出すなり妥協してすり合わせるなりして意見を一つにするため話をするものだし。

意味合いに疑問を持つ要素が見当たらないので、スレ主さんの認識のほうに誤解かなにかがあるんじゃないかな、と思った。
あるいは、
>「合う」という表現の使い方なのです。合格とか合致のように働きや形状に見合うという意味でなら迷うこともないのですが、
漢字の意味や使い方ではなく表現という言い方をしていて、働きや形状を気にされてることから、そういう辞書でわかる話ではないのかな。
だとするとどこを疑問に思っているのか、ちょっと私には伝わってないかもしんない。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 「合う」という表現の使い方

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元記事:括弧とダッシュ

次の2つの文について、意味や印象の違いを教えてください。
1)高校生の頃は友達がいなかったので(無論今もいないが)、僕は同窓会に呼ばれたことが一度もない。
2)高校生の頃は友達がいなかったので――無論今もいないが――僕は同窓会に呼ばれたことが一度もない。

上記の回答(括弧とダッシュの返信)

投稿者 サタン : 1 投稿日時:

括弧は種類がたくさんあるけど、基本的に明確なルールは存在しない。
ぶっちゃけみんな慣例的に何となくの理解で使ってる。
その中で丸括弧は、補足や注釈で使われるのが一般的。小説においては心の声などを書くに使うこともあるが、状況に対して心の声は補足の一部という表現が元にあって、それが次第に 何となくの理解 で使ってるので真似た作家が心の声の表現としてダイレクトに使うようになった。という感じ。
一方でダッシュ記号は、これは完全に日本語でも日本の記号でもなく、元は英語圏の記号で、昭和初期の頃まではナカセンって呼ばれてた。
当時、昭和より以前の明治とか大正の頃は日本の文学はかなり遅れてて、文豪はこぞって海外の文学を原書で読み漁って海外のテイストを輸入していた。
そのとき輸入された記号の一つがダッシュ記号で、英文でも補足情報の追加や注釈を加えるときに使う記号。
つまり、和記号を使うか英記号を使うかっていう違いがあるだけで、特に意味の違いはない。

個人的な印象で言うなら、丸括弧はダッシュ記号と比べて鍵括弧に近い印象があるのでセリフ感が強い補足文になると思う。
ダッシュ記号だと、ダッシュは鍵括弧の中に使うことはあっても括弧の代わりにセリフを区切るものとして使うことはないので、地の文に近い印象を得る。
なので、私は地の文でのキャラクターの心情の補足などはダッシュ記号を使い、セリフ内で補足文を加える場合は丸括弧を使う。
ついでに、地の文でキャラクターの心情以外の補足情報は、それをすると補足した何者かをイメージしてしまうので、私の場合はまずしない。
なのでスレ主さんの例文もだけど、このように一人称の場合はダッシュ記号での補足文はけっこうやるかな。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 括弧とダッシュ

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元記事:主人公の信念って?

また質問します。
主人公に信念を持たせる方法ってありませんか?
主人公に信念がない、師匠格のキャラに流されている感じがすると言われていました
信念を持たせ、流されない方法ってありませんか?

ちなみに書いた小説https://kakuyomu.jp/my/works/16817330648289037307です

上記の回答(主人公の信念って?の返信)

投稿者 サタン : 2 投稿日時:

信念を持たせたいのなら、信念をもたせりゃいいっていう頓智みたいな回答になるかな。
ようは何か適当に主人公の行動指針を設定するってことだから、その設定に方法なんてない。
ただ、いくつかアイディアはある。
信念ってのは、その信念をもとに主人公は行動するわけだから行動指針なわけだけど、そもそも、どんな人間だろうと 行動 する以上は少なからず信念らしきものを持ってるのよ。
例えばぐーたらで何もしない飯食って屁こいて寝るだけの無気力な人間であろうと、自身に危機が訪れてもチャンスが巡ってきても同じ態度で屁こいて寝てたら、こいつは「何もしない」っていう信念を貫いてるわけで。
逆に周囲の変化に敏感で危機やチャンスに対して手のひらを返しまくる人でも「心を殺してでも変化に順応する」って信念を貫いてると言えるわけ。
そういう行動に芯があるのを信念って表現するけど、繰り返し、そもそも多かれ少なかれ誰でもそんなものは持っている。
物語的には、問題は その信念をどう見せるか・印象付けるか っていう演出の話になる。
例えば、「チャンスが巡ろうと危機が訪れようと『何もしない』人」というのは確かに「なにもしない」事に対して強い信念があると思える。
けど、そんな人物に「チャンス」も「危機」も来なけりゃ、その人はただ「何もしないだけの人」で信念は見えてこない。
「チャンス」よりも「危機」よりも「何もしない」ことのほうが上位だから、そうやって比較対象が巡ってくる演出があるから、それが「信念である」と思えるわけです。
だから、
>信念を持たせ、流されない方法ってありませんか?
ってあるけど、
そもそも、「流されてる」ってのが問題。
いや、話の進行役ってのもあるし流されること自体は悪いことじゃない。それは単に話を進行してるだけだから。
でも、何も起こらない平凡な日常で、『何もしない人』はただの何もしない人でしかないんですよ。
言い換えると、走り屋としての熱が高い環境において、同程度の熱量を持ってる主人公は、「ただの人」でしかないわけです。
主人公が周囲ないし協力者と同じ方向に流されたら、「演出」としては目立たない。温度差もないからね。
なので、まず小手先ですぐにでも出来る対処法としては、師匠格のキャラとは別の答えを出させるってことかな。
師匠が「次は急カーブがあるから速度を落とそう」って言うところにむしろスピードを上げる主人公とか。
何らかの勝負を安い挑発だと一蹴する師匠だが主人公はノリノリで勝負するとか。
まあ、これをやりすぎると振り回されてる師匠って図になっちゃうけど。
師匠も主人公も二人ともがAをするぞ!って言ったら一体感はあるだろうけど、師匠がAをすると言ってるとこ主人公がBを押し通したら、そこにはBをするっていう主人公の強い意志が感じられるでしょ?
正確には、Bを選択した意思、その理由が信念になると思うけど、それは自由に設定できるものだから。

あとは、そんな読者の意見を逆手に取るというか、
「そうやって流されてる主人公が、こんな出来事を切っ掛けに強い意志を持つようになりました」ってエピソードを作っちゃう。
例えば、これは計算されたものだけど、漫画NARUTOでは主人公には最初から「火影になる」って目標があるけど、そのための覚悟も見て取れるけど、そのための方法がわからずただ強くなればいいと思ってるだけで言ってるだけな状態で序盤は進んでいく。里のみんなから認められるんだって意識になってくのは中忍試験やサスケが抜けたあたり。それ以前は強くなれば他人から認められるって意識だったけどこれが変わる切っ掛けになったのが最初の任務でザブザやハクと戦ったあたり。
NARUTOは複数のエピソードでこのあたりを書いて成長を描いてるけど、さしあたって御作は幸いにも「師匠に流されてるだけ」という印象を読者に与えるってことに既に 成 功 し て る ので、これを利用して、
「そんな流されてる主人公がこういう出来事で変わりました」ってエピソードを作ってしまえばいい。
例えば「ライバルに完敗した」とかが割と王道なシチュじゃないかな。スポーツものとかだとよくあるでしょ。
そのスポーツものだと、主人公に変化があったタイミングで「近くに新人大会がある」とかって同時に目標を与えることでスムーズに次の話題へ行ったりするね。
こうやって強い意志を持つエピソードを作ってしまえば、そっからはそれが主人公の行動指針として信念になるので、作れるかな。

カテゴリー : キャラクター スレッド: 主人公の信念って?

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元記事:キャラの行動原理を言葉で説明するか動きで示すか。

仮に、「僕は誰かを救って死にたいと常々考えていた」と「太郎は少女を助ける為に車の前に飛び込んだ」という文章があるとします。両方の文章共、「僕」と「太郎」が誰かを助ける為には命を投げ出す人物である、という事を念頭に書きました。
前者は言葉による説明で、後者が動きによる説明となります。そこで質問です。
作品のテーマを体現するキャラクターの行動原理は、言葉による説明で示してもよいのでしょうか? やはり、言葉では無く、行動で示す物なのでしょうか? 
ご回答よろしくお願いします。

上記の回答(行動原理を言葉で説明するか動きで示すかは使い分け)

投稿者 【本人から削除依頼】 : 2

> 「僕」と「太郎」が誰かを助ける為には命を投げ出す人物である、という事を念頭に書きました。

ということからすると、実際に行動を起こすキャラであることを示すものだと思います。それなら、「太郎は少女を助ける為に車の前に飛び込んだ」が適切です。実際に身を挺して助ける、というシーンの説得力は絶大です。

 一方、「僕は誰かを救って死にたいと常々考えていた」は、言葉というよりは思考ですね。太郎(=僕)の欲求、考え方、さらには哲学を示しています。ですから、両方書くこともあり得るわけです。

「僕は誰かを救って死にたいと常々考えていた」→「だから、太郎は少女を助ける為に車の前に飛び込んだ」とつなげれば、言行一致の太郎を描写できるわけです。

 考え方と行動を齟齬させることもできて、「僕は誰かを救って死ぬなんて馬鹿げていると常々考えていた」→「しかし太郎は少女を助ける為に、思わず車の前に飛び込んだ」とすれば、結構印象に残るシーンを描けたりもします。

 考え方と行動の使い分けというなんですが、もう少し敷衍して説明してみたいと思います。経済学研究などで、「直感と熟慮で判断が異なる」ということが知られています。詳しい説明は割愛しますが、直感での行動は他人を利する傾向、熟慮の行動は自分を利する傾向があるとのことです。

 よくある台詞で「つい助けちまったが、やるんじゃなかったぜ」みたいのがありますが、実際の人間の行動と思考ではよくあることであるわけです。

 別の研究では、事前の判断においては自己評価バイアスが働くことも分かっています。自信過剰のケースだと、やる前だと、実は無理なことでも「自分ならできそう」と思えてしまうものですね。例えばレストランの「食べ放題30分5千円」という宣伝を見て、「充分元が取れるほど食えるはず」と思って入店したものの、思ったほど食えなかったとかです。

 逆に心配しすぎで、実はできることでもできないと思い込んでやらない、みたいなものもあります。要は自分の能力を正しく判断しそこなうことはよくあるという、誰でも経験する事実です。

 お示しの太郎の場合だと、「常々」ですから熟慮と考えることにします。単純に考えてみると、熟慮でも利他的なのですから、直感ではさらに利他的になりそうです。しかし、自分が自分について考えていることは自己評価です。バイアスがかかっている可能性があります。

 例えば「誰かを救って死にたいと常々考えていた」というのが、理想化された自分だということですね。自分がそういう理想的な存在であると、自分に言い聞かせることによって、自信や快感を得たいだけという可能性があります。そして、誰かが車にはねられそうになるのを見て、怖くてすくんでしまい、助けられず、自分が理想から程遠かったことを知る、なんてのもよくあることです。

 一方、身を挺して人を助けたら、文句なしに行動原理となります。思わず飛び込んで助けたら直感の行動原理です。友人の重病を治す高額な手術のため、悩みに悩んだ末、全財産を投げたしたら熟慮の行動原理です。行ったことは覆りません。行動原理を明示するなら行動です。

 一方、思考レベルの行動原理は上記のようにバイアスなどのため、覆ることがあるわけですね。言い換えれば、未決定で曖昧な印象の行動原理を提示したい、特に後で覆すつもりのときには、こう思う、という形で行動原理を示せばいいのです。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: キャラの行動原理を言葉で説明するか動きで示すか。

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投稿日時:

元記事:人称について 一人称と三人称、どちらか片方に特化すべきか 両方とも書けるようになるべきか

初めましての方は初めまして。これまでのスレッドに書き込んでいただいた方々はお久しぶりです。マリン・Oと申します。
今回の質問は題名通りです。一人称と三人称のどちらか片方に特化すべきか、あるいは両方とも書けるようになるべきか、という質問です。

私は小説を書き始めてから今までずっと三人称で書いてきたのですが、たまには息抜きという形で一人称の小説を書き始めました。
ただ、一人称のルールに則った上で書くとどうしても似たような文が続きがちになります。
似たような文が続きがちになってしまうというのは、一人称では自然なことなのでしょうか?
一人称で普段書いている方、ご教授お願い致します。

上記の回答(人称について 一人称と三人称、どちらか片方に特化すべきか 両方とも書けるようになるべきかの返信)

投稿者 あまくさ : 1

質問の論旨が前半と後半で変わっているようです。

>一人称と三人称のどちらか片方に特化すべきか、あるいは両方とも書けるようになるべきか

それは書きたいものの内容次第では?
ストーリーによって、一人称向き、三人称向きということは有ると考えます。なので、それに即して選択するのがベストであって、一般論としてどちらかに特化するべきというものでは無いのではないかと思います。
そういう意味で、両方こなせる方が作品の幅が広がるということは言えるかもしれません。

>似たような文が続きがちになってしまうというのは、一人称では自然なことなのでしょうか?

一人称の性格として語り手の主観が文章に反映するので、「語り口」は似てくるだろうし、そうでなければ一人称としてはおかしいでしょう。
ただ、だからと言って「似たような文が続く」という状態になってしまうのは問題かと。視点人物をめぐる状況、人物の行動、風景、感情の起伏などによって、文章の変化は十分に生まれると思います。そうでなければ読者が退屈してしまうでしょう。
ストーリーや内容が豊かでなければ文章が平板になってしまうのは、三人称とて同じことだと思いますよ。

カテゴリー : 文章・描写 スレッド: 人称について 一人称と三人称、どちらか片方に特化すべきか 両方とも書けるようになるべきか

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投稿日時:

元記事:文章力をあげる練習

自身の文章力を上げるために自分なりにこれはどうかなという練習があるのですが。

・ひたすら文章を読む
・プロの文章をパソコンで書き写す
・プロの文章を音読する。

これらの練習は有効でしょうか。

上記の回答(文章力をあげる練習の返信)

投稿者 t : 0

こんにちは、プロの文章には1文字も無駄がありません。
アタリをつけた作家さんのリズムや息づかいを学ぶ、いい機会になると思います。
書き写しても知っていると使いこなすでは別物です、さらに自分の小説を書きながら文章のリズムを試す場所が必要になってきます。

書き写す際はパソコンではなくノートに手書きがいいです。
時代がパソコンになってからそれこそ無限に文章が書けるようになりました、手で書ける量には限界があるので、文章が洗練されている傾向があります。
そして必ずやった方がいいことは、物語は通常、視点人物(主人公)の目的と動機が提示された後で文章が展開されていきます。作中で、この目的と動機は細かく切り替わっています。そこも意識されながらノートに記録することで、書き写しで文章が上手くなるだけでなく、小説という道具の理解も進むはずです。

飽きたり、自分にあわなければ別の方法を試せばいいだけなので、自分にあったやり方で楽しみながら長く続けるのが一番いいです。応援していますo(^o^)o

カテゴリー : その他 スレッド: 文章力をあげる練習

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