サタンさんへのクローバーさんおご返信も参考にしつつ、考えてみます。
サタンさんからは、「キャラの「素」を書ける環境を用意(例としてコンビを作る)」がありますね。例えば、キャラAを生き生きと動かしたかったら、環境としてコンビとなるキャラBを作用させる(Bから刺激させたり、Bへ応答したり等々)
クローバーさんはそれに対し、「暴走アクセル役」と「冷静ブレーキ役」を用意して、コンビとしたと仰っていますね。つまり、やっているつもりです、と。
ちょっと変な返答だなという気がします。サタンさんが仰っているのはおそらく、あるキャラをどういう状況に置くかということが含まれると思います。主人公Aを動かすための、作用キャラBを用意する場合、AにとってBは環境の一部です。
しかし、クローバーさんからのご説明は、用意したのは対等なキャラというもののように思えます。そうではなく、例えば「暴走キャラ視点では、ブレーキキャラはどういう作用がある環境なのか」→「ブレーキキャラの存在を加えると、暴走キャラの意思決定~行動はどう変わるか?」と考えていかないと、アドバイスを充分に生かせないのではないでしょうか。
そういったことを踏まえまして、私へのご説明を拝読してみますと、キャラがどういう喋り方かといった細かい点になっています。そういう細かい点で操り人形は発生しません。操り人形か否かは、キャラが自ら考えて動いた(ように感じられる)か、作者の指図で動いている(ように感じられる)か、です。
推理物とのことですので、古典的な名作ドラマ「刑事コロンボ」で考えてみます。犯人視点からすると、コロンボ刑事はよれよれのコートを着て、いかにも冴えない感じの中年刑事です。犯人は完全犯罪を目論むほどの賢い人物となっています。勢い、侮りますよね。
しかし、犯人は万が一にも自分が殺人犯だとバレたくはない。そうなると、犯人は聞かれたことはもちろん、聞かれてもいないことまで喋って、コロンボをミスリードしたくなるわけです。ドラマが進むにつれ、犯人は嘘だがもっともらしい推理すら、コロンボに披露したりもします。
(しかし、実はコロンボは見かけによらず、観察力、推理力に優れた刑事で、犯人の嘘で整合性がない点や誤魔化そうとした点に注目して、犯人を追い詰めていく。
その段階になると、いったん犯人に質問し終えて諦めて帰ろうとして、犯人がホッとした心理の隙をついて、「ああ、そうだ!」と言って、核心の質問をしたりもする。)
自然ですよね。賢い殺人犯だからこそ、頭のよくなさそうな刑事を騙したくなる。こういう状況を脚本家は用意するわけです。コロンボ刑事がどういう人物か、犯人がどういうキャラかは、神=作者が自由に創造できます。そこまでは作者が恣意的に決めてよいわけですが、いったんストーリーが開始したら、行動・言動はキャラに任せねば自然となりません。任せるけど物語通りにキャラに動いてもらうために、ストーリー開始前にそうなる状況を作っておくわけです。
これがうまくいかない原因を推測するため、サタンさんへのご説明に立ち戻ってみますと、2人のキャラ、ブレーキとアクセル、どちらも作者さんがペダル踏んでないでしょうか。「ここで突っ走って欲しい」「そう、そこで止まって」みたいな気持ちで書くということですね。そうなると、2人のキャラは噛み合いすぎになることも多くなるはずです。なぜなら、作者の独演に等しいからです。
そうするのではなく、キャラの行動・言動を直接にはいじらず、「ここで突っ走ってもらうためには、2人に何を用意すればいい?」「そこで止めるためには何があればいい?」と考えて、作劇していく必要があります。
(なお、環境として用意したものが、同等な複数の選択肢を生む場合は、作者が恣意的に選択してよかったりする。しかし大事な選択については、原則として一度まで。何度も都合のいいものを選ぶと、やはり不自然で作為的になる。)
言葉を変えて簡潔に言い直してみますと、「キャラが作者の意図、知識、気持ちなどを一切知ってはならない」となります。言い換えれば、自分が目的合って創造したキャラであっても、「このキャラは自分(作者)の心づもりは知らないはずだ」を、徹底して書き進める必要があるわけです。
もしそうできれば、キャラが操り人形と化してしまう危険性は大幅に下がります。話が出来過ぎ、シーンが予定調和といった感想も少なくなるはずです。